お寺で、お檀家さまに配布するようにとご用意している冊子『仏教初歩入門』には、法句経として六つの偈が収められています。般若心経、観音経と同じように、音読いたします。その六つは、仏教伝道協会『仏教聖典』の冒頭に掲げられる七つのうち、(ひとつを省略しての)六つです。

 

そのひとつに、

 

怨みは怨みによって果たされず、忍を行じてのみ、よく怨みを解くことを得る。これ不変の真理なり。

 

があります。「忍を行じてのみ」とはどのように理解すべきでしょうか。

まず、パーリ語文を確認します。


Na hi verena verāni / sammantīdha kudācanaṁ

Averena ca sammanti / esa dhammo sanantano.

vera: n. 怨、怨恨、敵意。

sammati: [√sam(u), Sk. śam] 静まる、寂止す、など

sanantana: a. 昔からの、永遠の。

 

この世では、怨み(原文では複数形)が怨み(単数形)によって鎮まるということは絶対にあり得ない。(怨みは)怨みなきこと(= 怨みを捨てること)によって鎮まる。これは永遠の真理(dhamma. skt. dharma理法)である。

 

「忍を行じてのみ」はパーリ文の「怨みなきこと」に対応します。

 

竺佛念訳『出曜經』大正蔵No.212には、「行忍」とあり、次のように漢訳されています。

 

不可怨以怨 終已得休息 行忍得息怨 此名如來法(vol.4, 697a4-5)

 

「忍を行じてのみ」の「忍」を、ここでは”ごんべん”をつけて、「認」と理解することをご提案したいと思います。「認」は、みとめる、の意味。細分すれば、ゆるす(認可)、承知する、見きわめる(認識)となります。相手の立場を理解できる、まわりの状況をよく見きわめることで、怨みの心をいだくことなく、いま、ここで、どのように対処するのがもっとも正しいのかが理解できることになるのではないでしょうか。

 

ここでご紹介した偈は『ダンマ・パダ』の第五偈です。それをよく深く理解するためにも、第三偈、第四偈、そして第六偈をもあわせて読んでおきます。和訳は中村元先生によるものです。

 

第三偈「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだく人には、怨みはついに息(や)むことがない。

第四偈「かれは、われを罵った。かれは、われを害した。かれは、われにうち勝った。かれは、われから強奪した。」という思いをいだかない人には、ついに怨みが息む。

第五偈 実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。

第六偈「われらは、ここにあって死ぬはずのものである」と覚悟をしよう。──このことわりを他の人々は知っていない。しかし、このことわりを知る人々があれば、争いはしずまる。

 

今夜はお通夜のお勤めがあります。いまは小雨ですが、これから強くなるのか少し心配です。皆さまのお住まいの地域はいかがですか。ご注意くださいませ。

 

和英対照仏教聖典では、次のように英訳されています。

 

Hatreds never cease by hatreds in this world. By love alone they cease. This is an ancient Law.  「愛によってのみ」とあります。