出家者は互いに看護することの義務を説くお経

 

瞿曇僧伽提婆譯『増一阿含經』大正蔵No.125. Vol.2, 766b22- 767b26.

 (七) かくのごとく聞けり。一時、佛は羅閲城(らえつじょうRājagṛha)迦蘭陀竹園所(からんだちくおんじょVenuvana-vihāra)に在(いま)し、大比丘衆(だい・びくしゅ)五百人と倶(とも)なりき。その時、羅閲城中に一(ひとりの)比丘あり。身疾病(しっぺい)に遇い至り、困悴(こんすい)をなす。臥して大小便し、自ら起きて止まることあたわず。また、比丘の往きて瞻視(せんし。看護)する者なし。昼夜に仏の名号(みょうごう)を称し、「いかんが世尊(せそん)独り愍(あわれ)みて見ざるや」と。(中略)

 

瞻視について、「瞻」は相手に敬意を払いつつみること、「視」はあるものを注意深くみること、とあります。

 

その時に如來(にょらい)は、手に掃篲(そうぜい)を執(と)り汚泥を除去し、更に坐具を施設(せせつ)す。また与(とも)に衣裳を浣(すす)ぎ、三法(?)、これを視て扶け、病の比丘を坐らしめ、浄水にて沐浴(もくよく)す。諸天、上に在りて香水をもってこれを灌(そそ)ぐあり。この時に世尊は、もって比丘を沐浴しおわりて、還(かえ)りて床上に坐し、手に自ら食を授く。(中略)

 

(仏、)もろもろの比丘(に告げたまわく)、「汝ら、出家のゆえんは共に一師同一の水乳(Cf.「共同一法、共師受」「諸比丘當共和合、共師侶同一水乳」)なり。しかるに、おのおのあい瞻視せず。今より已後(いご)、まさに展転して相瞻視すべし。もし、病の比丘に弟子なくば、まさに衆中において次を差(つか)わし病人を看(み)せしむべし。しかるゆえんは、これを離れおわりて(= これ以外には)、更に施さるるところの福は、病の人を視るに勝れるを見ず。それ病を瞻(み)る者は、我を瞻ると異なることなし。」

 

病にある出家者を看護することは、私(お釈迦さま、のこと)に対しての行いと理解して行うことを説いています。それは同じ志をもち、等しく修行に励む者同士という認識があってのことなのでしょうか。仏典の中には、病にある比丘を見舞われるお釈迦さまを題材にした『病あつきヴァッカリ』(相応部22-87)という経典もあり、また失明にあっても天眼通を獲得した阿那律尊者(アヌルッダ)の法衣をお釈迦さまが針に糸を通し繕われたことを語る経典などもあります。

 

もちろん、その同じ精神は、在家者に対しても、そして(皆ともに幸せを願い、求める)在家者同士にも向けられるべきです。敬意・考慮を払うとともに、布施・寄付、報恩・感謝、介護・救護をもって功徳を積むことのできる対象に、三つがあるといいます。

 

敬田(きょうでん):仏さま、各宗のご開祖さま、出家者など、心から敬うべきお方。宗教上の学びの恩。

恩田(おんでん):先生や同僚、および父母両親をはじめ、ご縁とご恩のあるお方。人として生まれ、(少しはよく)成長することのできたことの感謝としての対象

 

悲田(ひでん):病や貧困、被害や災害に苦しんでいるお方、そしていまをともに生きる者たちをいいます。彼らには、慈悲の心をもって対処する必要があることから「悲田」と呼ばれる、とのことです。これらを三福田といいます。

 

大迦葉尊者の頭陀・托鉢行、聖徳太子が四天王寺内に作ったとされる施薬院、悲田院、敬田院、療病院、また興正菩薩叡尊(1201-1290)による貧民救済なども、その一例として指摘されます。

 

この記事を作成するにあって、『原典仏教福祉』原典仏教福祉編集委員会編、渓水社、北辰堂1995を参照しました。