鳩摩羅什三蔵(344-413/350-409説もあり)が漢訳された『妙法蓮華経』では、観世音・観音という訳語が用いられています。この訳語が三蔵ご自身の発案によるものかどうかは興味あるところです。ここでは扱いませんが、できるだけ調べてみる必要があるようです。

 

観世音・観音という訳語の「音」の原語はsvaraです。「音声」(おんじょう)という表現もあり、“ことば”というよりも、“こえ”です。「観音さまの心」と題する臨済宗円覚寺派大本山円覚寺「管長のページ」今日の言葉(2025.06.25)には、「声を観る」ということの深い意味についての、次のような言及がありました。

 

音を観ると訳したのも絶妙だと思います。声を観るのであります。言葉ではいろんなことを言えますが、声をごまかすことはできません。言葉では「だいじょうぶです」と言いながらも、その声は助けを求めていることもあります。言葉では「けっこうです」と言いながらも、声は救いを求めていることもあるものです。その音を観る、声を観るということはとても奥深いものであります。

 

もう少し文章をつづけます。ことばにすれば、自分の気持ちを相手に伝えられるかも知れません。でも、“ことばに詰まる”ときもあります。観音さまの「音を観る」とは、“声にならない”声も含めて、私たちの気持ち、願い、心の中を正しく理解してくださる、といってもいいのかも知れません。

 

“ことばにできない”、私たちの心を観音さまに伝える方法があります。それは「称其名号」、「一心称観世音菩薩名」とお経の中にあるように、「南無観世音菩薩」(南無観世音、南無観)と“こえ”に発せばいいのです。必ずしも、「~してください」と“ことば”にする必要はないのです。決して「~してほしい」と願う必要はないのです。(偈文に「念彼観音力」とあるような、純粋な「念smara」(観音さまの功徳を念ずること)が必要なのです。)

 

“相手の声をよく観て対処すること”を必要とするお仕事はたくさんあります。わたしたちも僧侶もそのひとつです。


 

ヨツモトユキ(YOTSUMOTO Yuki)さんというお方の作品です。本作品は以下の「手が欲しい」という詩と関係があってものなのかは存じてはいません。

 

「観音さまの心」でも紹介されていた、千本の手についての、坂村真民さまの「手が欲しい」という詩をここでもかさねてご紹介いたします。昭和五十年曹洞宗宗務庁発行『御仏は風の如く花の如く』に収載されている、とのことです。

 

手が欲しい 坂村真民

 

目の見えない子供の描いた

お母さんという絵には

いくつもの手がかいてあった
 

それを見たときわたくしは

千手観音さまの実在を

はっきりと知った 
それ以来あの一本一本の手が

いきいきと生きて

見えるようになった
 

異様なおん姿が

少しも異様でなく

真実のおん姿に

見えるようになった
 

ああ わたくしも手が欲しい

 

ベトナム・パキスタンの子らのために

インド・ネパールの子らのために