『大日経』住心品 六十心 板心、迷心

(47)云何んが板心(はんしん。vṛkṣacipiṭa-citta)。謂わく、量に随う法に順修して、余善を捨棄するが故に。

Tib. shing leb kyi sems gang zhe na [/] gang dge ba’i gzhan spong bas sten pa’o //

木片(平板な板)のような心とは何か。余りの善を排することをもって、(対象に)近づくこと。

 

(48)云何んが迷心(bhranta-citta)。謂わく、所執異にし、所思も異なる。

Tib. nor ba’i sems gang zhe na / gzhan bzung zhing gzhan kho nar sems pa’o //

錯乱の心とは何か。(あやまって)他なるものを認識して、(さらに)まさしく他なるものであると思惟すること。

 

『大日経疏』巻第二 板心

如板在水中。隨其分(599b19量受載諸物。過限則不能勝。終亦傾棄之。此(b20人心亦爾。簡擇善法4業隨己力分。行一事已(b21便作是語。我承上以來。唯行此法不知其他。(b22乃至習行八齋即不捨離。更不慕行餘善。以(b23發廣大心學菩提行。是所對治。

 

板の水中(= 水上)に在るに、その分量(キャパシティ)に随って諸物を受け載せて、限(= 限度)に過ぐるときは、すなわち勝(た)うること能わず。終(つい)に亦た傾けて、之を棄つるが如く、この人の心も亦た爾なり。善法を簡擇して、己(おのれ/おの)が力分に随って、一事を行じ已って、便ち是の語を作す。我れ承上以来(= もとより)、唯しこの法をのみ行じて、その他を知らず。乃至、八齋を習行して(/しても)、すなわち捨離せず、更に余善を行ぜんと慕わず、と。以て広大の心を発し、菩提の行を学する、是れ所対治なり。

 

浄菩提心・仏性(または、縁起生・無自性)に裏付けられた無限の可能性を信頼して(または、深く理解して)、無上菩提へと至る行い(bodhicaryā)に邁進することを誓うことの大切さ。いたずらに、自らの成長、向上に限度・制限(想定値)をもうけない。八齋とは、八齋戒(八支近住齋戒)であり、一日一夜を限って守る在家信者の戒をいいます。八つ戒めの中には、午後は食事を摂らない、などがあります。齋upavāsa<upa√vas, to abstain from food.

 

『大日経疏』巻第二 迷心

如人迷故。意欲(b25向東而更向西。此人心亦如是。意欲學不淨(b26觀。而反取淨相。自謂我今修不淨觀。若修無(b27常無我時。反行常我倒中。5謂我今修無常無(b28我。由心散亂故使然也。當念專一其心。審諦(b29)安詳無倒觀察。是彼對治。

 

人の、迷う(√bhram, to wander or roam about)が故に、意(こころ)には東に向かうと欲して、而も更らに西に向うが如く、この人の心も亦た是の如し。意には不浄観(aśubhāsmṛti)を学すと欲えども、而も反って浄相を取って、自(みずか)ら、我れ今、不浄観を修すと謂えり。もし無常・無我を修する時も、反って常・我倒の中に行じて、我れ今、無常・無我を修すと謂えり。心、散乱するに由るが故に、然らしむるなり。まさに念ずべし、その心を専一にして、審諦安詳にして、無倒に観察せんとするは、これ彼の対治なり。

 

板心を踏まえて、迷心を理解するならば、前者は「広大に」であり、後者は「専一に」となります。いずれも「菩提の行」を実践するうえで注意すべき心のあり方をとなります。不浄観は、貪欲(愛欲)の心を制御するために行われる、自他の肉体の不浄なさまを観ずることをいい、散乱する心を制御するためには、呼吸を数えて散乱する心に対処する数息観(すそくかんānāpāna-smṛti、安那般那念)があります。

 

久しぶりの投稿です。もとのペースに戻すのは骨が折れますが、お勉強が再開できて、ほっとしています。(いつまで、つづきますやら。無理をしないようにします。)