『大日経』住心品 六十心 泥心、顕色心

(45)泥心(? naḍa-citta)。梵本缺文不釋。

Tib. ‘dam gyi sems gang zhe na / gang bdag gi nyes pas gzhan la skur ba’o //

(45-1)泥(*paṅka, jamba, etc.どろ。ぬかるみ)の心とは何か。みずからの過失をもって、他を中傷することである。

 

Tib. rnyog pa’i sems gang zhe na / gang pha rol gyi nyes pa ‘dzin pas sems la rnyog pa skyed pa’o //

(45-2)濁りの心(āvila-citta)とは何か。他の過失を把握する/知る(√grah)ことで、(自らの)心に濁りを生じることである。 

 

(46)云何んが顕色心(raṅga-citta)。謂わく、彼に類するを性とす。

Tib. thson rtsi’i sems gang zhe na / gang de la chags pa nyid du sten pa’o //

色(塗料)の心とは何か。執するところのそのままに依存することである。

 

『大日経疏』巻第二 六十心 泥心、顕色心

第四十五泥(599b06心。梵本缺文不釋。阿闍梨言。此是一向無明(b07心也。乃至目前近事亦不能分別記憶。故律(b08云猶如泥團。又如泥濘以淖弱故。難事越度。(b09要令有所由藉。謂假橋梁等方能越之。若覺(b10有此方便。必須歸憑善友。令方便開發。乃能(b11漸去無知還生慧性也。

 

第四十五(に)泥心(とは)、梵本に文欠けて釈せず。阿闍梨の言たまわく、此れは是れ一向(に)無明なり。乃至、目の前の近き事(じ)も、亦た分別し記憶すること能わず。故に律に、猶おし泥団の如しという(Cf.法顕訳『摩訶僧祇律』大正蔵No.1425, vol.22「(326a29)汝是愚癡闇鈍無知人。猶如泥團」)。又た泥濘の、淖弱なるが故に、越度を事(こと)とし難きを以て、要ず由藉する所(= 拠り所とするところ)あらしむ。謂わく、橋梁等を假って、方さに能く之を越うるが如し。若し此の方便あることを覚せば、必ず須らく善友に帰憑して、方便をもて開発して、乃ち能く、漸く無知を去け、還って慧性を生ぜしむべし。

 

泥心は、一向に無明なること、泥団(どろのかたまり。何にも役に立たないことを譬える)のような心の状態をいいます。泥濘は「橋梁等を假って(= 用いて)」超える必要がある、そのようにここでの「橋梁」の役割をするのが「善友」となります。

 

漢訳文は、この一節を欠していますが、チベット訳文では「みずからの過失をもって、他を中傷する(転嫁する)こと」とあり、多少理解を異にしています。次の(45-2)濁りの心も漢訳文にはありませんが、その内容は、(45-1)泥(どろ。ぬかるみ)の心と対になっています。

 

譬如青黄赤白等染色。若(599b13素絲入之便與同色。此人心亦如是。見聞善(b14法亦隨彼行。見聞惡事亦依隨修學。乃至無(b15記亦爾。對種種境界隨事而遷。行人自覺知(b16已。當念專求自證之法。不由他悟不爲他縁(b17)所轉。是彼對治。

 

譬えば、青(しょう)黄(おう)・赤(しゃく)・白(びゃく)等の染色に、若し素絲(= 白い糸)、之れを入るときには、便ち与(とも)に色を同ずるが如く、此の人の心も亦た是の如し。善法を見聞しては、亦た彼れに随うて行じ、悪事を見聞しては、亦た依随し修学す。乃至、無記(善悪いずれでもないもの・ことであって)も亦た爾なり。種種の境界に対して事に随って而も遷(うつ)る。行人自ら覚知し已んなば、まさに念ずべし、自證の法を専求するには、他に由って悟らず、他縁のために転ぜられずと。これ彼の対治なり。

 

顕色心とは、白い糸が染料の色にしたがって、いろんな色、どんな色にも染め上げられるような、(完全に)他に依存している心の状態をいうのでしょう。それに対して、まずは、みずからをよく知り、制御し、向上させることが求められるのです。