私たちが学ぶ、お釈迦さま、そして仏弟子の逸話や、またお説法でも用いられる仏教的なお話しの中には、直接、仏典に出典が求められないものが少なからずあります。では、そのようなものは“創作”であり、すべて排除すべきなのかといえば、必ずしもそうでもありません。取り扱いには注意が必要ですが、充分、意味のあるお話しもあるのです。前回取り上げた“貧しい村に(托鉢/行乞)行かれたお釈迦さま”という逸話もそのひとつだったようです。(もちろん仏典の出典があるからといって、それらすべてがお釈迦さまの説法として受け入れられるというものでもないことも、私たちは、文献学といった批判的な学問をとおして知っています。)

 

ここでは、食事で用いる長いお箸というお話しをひとつご紹介いたします。これも、仏典に出典が求められない“創作”のひとつなのかと思われますが、いくつも学ぶところがあるのです。それは、岡本一志さまの『心がほっとする ほとけさまの50の話』王様文庫2018から「地獄の住人と、極楽の住人の『違い』はどこにあるのでしょうか」という一節からの抜粋になります。

 

ある男が地獄に見学に行くと、ちょうど昼食が始まる前でした。

「さぞ粗末な食事に違いない」と思ってテーブルの上を見ると、山海の珍味ばかりの豪華な料理が並んでいました。/ところが、地獄の罪人はみんな、ガリガリにやせこけているのです。(/は本文では改行となっています)

 

見ると、罪人の手には一メートル以上の長い箸が握られていました。食事が始まると、その長い箸を必死に動かして、自分の口へごちそうを入れようとするのですが、箸が長すぎてとても入りません。/怒り出す者もいます。人のつまんだものを奪う者もいます。ところが結局、自分の口に入れようとしても入らないのです、みんな、ガリガリにやせこけていたのでした。

 

次に、男は、極楽に見学に行きました。ちょうど夕食が始まる前でした。/もちろん、料理は山海の珍味です。/極楽の住人は、みんなふくよかでニコニコしていました。

 

ところが、手にしている箸は、地獄と同じ、一メートル以上もの長さがあるものです。/『はて、これでは地獄と同じではないか? 何が違うのだろう』と見ていると、なんと、その長い箸でお互いの食べたいものを取り合って、お互いの口に運んであげていたのです。

 

自分のことだけを考えているため、周囲と争い苦しんでいる人。/一方は、同じ状況に置かれていても、お互いを助け合い、楽しく過ごしている人。/どちらが幸せかは、いうまでもありませんね。

 

お釈迦さまは、相手を幸せにすることで、自分も幸せになることができると「自利利他」を教えられています。幸せの花は、相手と自分との間に咲く花なのです。

 

以上のようなお話しです。とてもいいお話しで、私もときどきご法事でお話しいたします。でも取り扱いには注意が必要なのです。

 

たとえば、まず、地獄に堕ちた人たちには、食事の時間ってあるのかしら、という疑問。極楽では、食事の時間があることは『阿弥陀経』にも説かれていますが、それは決して夕飯時(ゆうはんどき)ではありません。ですから、このお話しは、根本的に破綻しているということにもなりますが、でも、それでも、学ぶべきところがあるのです。それは「相手を幸せにすることで(利他)、自分も幸せになる(自利)」という考え方がそれです。でも、それでも“注意”が必要なのです。「自利利他」って、「相手を幸せにすることで、自分も幸せになる」という理解で十分なのでしょうか、ということです。それは大乗仏教的発想だからいいのです、といえるかも知れませんが、お釈迦さまのお考えに沿って考えるべきものなのです。

 

極楽や地獄についても、知りたいことがたくさんあります。でも仏教的な考え方を踏まえてひとつ指摘するのなら、まず極楽や地獄がある、存在するとして、それは、みずからが択ぶ行き先だということ、です。この娑婆世界では、いろんな考えをもった、さまざまなお人が一緒に暮らしています(、だからこそ、勉強になり、みずからを向上させることができるのです)が、極楽や地獄という場所は同じ考えを持つお方が、それぞれひとつに集まって暮らすことになる、ということのようです。ある意味とてもこわいことです。喧嘩の好きな人は喧嘩好きのお方ばかりが集まってくる、のですから。

 

「幸せの花は、相手と自分との間に咲く花なのです。」というご提言もとても好感が持てます。でも、仏教的発想としては、相手も自分も“ない”のです。ここでの“ない”とは、さほど変わるところが“ない”ということ(隔てはない)を意味します。真実を知らず迷っている者同士が、真実を学び、それを体得しようと生きている。その間にこそ、幸せの花が咲くのです、ということです。“和合”があって、咲く花なのかも知れません。

 

このようなお話しをした後のひとつの“締めとして、次のように申し上げることもあります。皆さまも今夜は、極楽の住人になって、ご夫婦お二人、どうぞ向かい合って食事をお楽しみくださいませ、と。でもこれも仏教的発想とはいえないようです。食事は楽しく摂るものではない、というのが仏教的発想ですから。仏教は、基本的にはストイック、世間になじまないものなのです。それを踏まえて大乗的発想があります。だから私は仏教につよく惹かれているのです。

 

食事に関しても、まだまだ多く学ぶことがらがあります。仏教には段食、識食などという概念もあります。またいずれお話しいたします。