『大日経』住心品 六十心 癡心・智心

(5)云何が、癡心(moha-citta)。謂わく、不観法を修することに順修す。※『大日経疏』には「不観の法に順修す」とある。(6)云何が智の心(prajñā-citta)。謂わく、殊勝増上の法に順修す。

Tib. gti mug gi sems gang zhe na / gang mi dpyad par chos sten pa’o // shes rab kyi sems gang zhe na / khyad par las khyad par gzhan rtogs par bya ste chos sten pa’o //

愚かな心とは何か。いずれも考察することなく、法に付き従う(ものごとにあたる)ことである。識別(智)の心とは何か。勝れたものより、(さらに)勝れた他のものを理解しようとして、法に付き従うことである。

 

『大日経疏』巻第二 六十心 癡心・智心

謂不觀前言(596c10)善惡是非。遇便信受。凡所爲事業。不能先以(c11)慧心甄別籌量是非。如是等多諸誤失。皆是(c12)癡心相也。

 

謂わく、前(まえ)の言の善悪・是非を観ぜず、遇えば便ち(= ただちに、そのまま)信受す。凡そ所爲の事業(は)、先ず(まずもって)慧心を以て甄別して是非を籌量(ちゅうりょう)すること能わず、是の如く等は、諸の誤失多し。皆な是れ癡心の相(あらわれ、ありさま)なり。

 

謂是人於種種所説中皆以智簡擇此(596c14勝此劣此應受此不應受。取其勝上者而9後(c15行之。即是無癡相也。然10道人之法。非智力(c16籌量所能及之。唯信者能入11耳。是故觀察(c17)世智12辯聰難。是彼對治。

 

謂わく、是の人(は)種種の所説の中に於いて、皆な(自らの)智を以て“此れは勝れたり”、“此れは劣なり”、“此れは受くべし”、“此れは受くべからず”と簡擇(けんちゃく)して、其の勝上の者を取って、而して後に之を行ずるば、即ち是れ無癡(= 賢い人)の相なり。然も(/然るに)道人の法(仏道を修する者の行うところなど)は、(俗世間の)智力の籌量の能く及ぶ所に非ず。唯だし信ずる者のみ能く入るのみ(Cf.「仏法の大海は信を能入と為し、智を能度と為す。」『大智度論』巻第二十五)。是の故に、世智辯聡(せちべんそう)の難(邪見におちいるの難等)を観察する(は)是れ彼の対治なり。

 

世智辯聡は、仏法を聞くのに妨げとなる「八難処(はちなんじょ)」「八難」のひとつに数えられ、その場合は「世知にたけて邪見におちいる」難と理解されます。なお、八難を逃れている状態を「八有暇(うか)」といいます。

 

癡心・智心も、仏道の修行を進展させるためには、矯正されるべき心の状態(心差別)なのです。