『大日経』住心品 瞋心・慈心
(3)云何んが瞋心(dveṣa-citta)。謂わく、怒法に随順す。(4)云何んが慈心(maitra-citta)。謂わく、慈法に随順し修行す。
Tib. zhe sdang gi sems gang zhe na / sdang bas chos kun tu sten pa’o // byams pa’i sems gang zhe na / byams pa dang ldan pas chos sten pa’o //
いかりの心とは何か。嫌悪(する)をもって、法(ものごと)にあたることである。いつくしみの心とは何か。いつくしみをともなって、法(ものごと)にあたることである。
『大日経疏』巻第二より 瞋心・慈心
怒謂嗔心發動。事彰於外。(596c02)以心法難識故。以順修怒法釋之。若數起如(c03)是不寂靜相。即知是嗔心相也。但於此衆縁(c04)中觀察嗔心。自無所住則此障不生。
怒(ぬ)は謂わく、瞋心発動して、事(は)外に彰わる(いかりとは何か。すなわち、いかりの心・感情が生じはたらき、身・語のありさまとして外部にあらわれることである)。(でも)心法は識り難きを以ての故に、怒法に順修する(いかりの心をもって、法にあたること)を以て、之を釈す。若し数々(しばしば)是の如くの不寂静(「寂静」はśama, śānta平静の意)の相(= ありさま)を起こすは、即ち知んぬ、是れ瞋心の相(= 特徴)なり。但し此の衆縁の中に於いて瞋心を観察するに、自ずから所住(怒りの心の発生の根拠となるところ)なくして(/所住なきときは)、すなわち此の障り(= 瞋心は)生せず。
怒りの心の発動は、身(身体的行為)・語(言語行為)となってあらわれる。怒り発生の根拠をまわりの状況に求め、その根拠はないと知ることで、怒りの心が、今後生じなくなるという。
此慈亦是與嗔(596c06)相違。愛見心垢之慈。非善種所生也。上慈字(c07)據内心。下慈字是外相所爲事業。既覺知已。(c08)但治妨道之失。轉轉修慈無量心。即是對治。
此の慈は亦た是れ、瞋と相違せり(相対概念としての慈である)。愛・見心垢(すなわち、煩悩に汚されたところ)の慈なり、善種(= 善根の)所生には非ず。上の慈の字は内心に拠り、下の慈の字(愛・見心垢の慈)は、是れ外相所爲の事業なり。既に覚知し已んぬれば、但し妨道の失(修行の道を妨げるという過失)を治す。転転して慈無量心を修する、即ち是れ対治(pratipakṣa対抗手段)なり。
瞋心の相対概念としての愛・見心垢の慈に対処するためには、慈(maitrī)無量心(衆生に楽を与えることがはかりしれない、利他の心)を修習こと、身につけることが必要である、という。