心法無形 臨済録
『臨済録』(りんざいろく。中国唐代の禅僧・臨済宗開祖・臨済義玄[? - 866または867年]の言行をまとめた語録。正式名は『鎮州臨済慧照禅師語録』)
「心法無形」は、次のような記述から始まります。
道流(どうる。諸君)、心法(しんぽう)は形無くして、十方に通貫す。眼(まなこ)に在っては見(けん)と曰(い)い、耳に在っては聞(もん)と曰い、鼻に在っては香(か)を齅(か)ぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しっそく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す。本(も)と是れ一精明(いちせいめい)、分れて六和合(ろくわごう)と為(な)る。一心既に無なれば、随処に解脱す。
現代語訳(入矢義高『臨済録』岩波文庫1989)
「諸君、心というもの(「心法」)は形がなくて、しかも十方世界を貫いている。眼にはたらけば見、耳にはたらけば聞き、鼻にはたらけばかぎ、口にはたらけば話し、手にはたらけばつかまえ、足にはたらけば歩いたり走ったりするが、もともとこれも一心が六種の感覚器官を通してはたらくのだ。その一心が無であると徹底したならば、いかなる境界にあっても、そのまま解脱だ。」
黄檗禅師(おうばく きうん。[? – 850]黄檗山黄檗寺を開創。臨済義玄の師)『伝心法要』の「心法」の用例
現代語訳(入矢義高『伝心法要・宛陵録』禅の語録 8、筑摩書房2016)
「世人は、諸仏はみな心の法を世に伝えたのだと聞くと、心に何か別に証すべく把握すべき法があるかのように勘違いし、そこで心でもって法を探しもとめる。とんだ考え違いで、心こそは法にほかならず法こそは心にほかならぬのだ。」
「心でもって法を探しもとめる」は、法でもって心を探しもとめる、と言い換えても良いように筆者には思えます。「心こそは法にほかならず法こそは心にほかならぬのだ」とありますので。そうすれば、自らの心とは何か。ここでは「その一心が無」とありますが、『大日経』では、ほぼ同趣旨の内容は異なる表現で示されます。
心法無形は、次のような記述で完結します。(原文の読み下しでご紹介します。)
但(た)だ能(よ)く縁に随って旧業を消し、任運(にんうん)に衣装を著(つ)けて、行かんと要(ほっ)すれば即ち行き、坐せんと要すれば即ち坐し、一念心の仏果を希求(きぐ)する無し。何に縁(よ)ってか此の如くなる。古人云く、若し作業(さごう)して仏を求めんと欲すれば、仏は是れ生死の大兆(だいちょう)なり、と。
「旧業を消し」とは、無明、行、識、云々とある、無明に条件づけられた行(Pali. saṅkhāra, Skt. saṃskāra.潜在的形成力)の悪しき働きを是正するということをいうのでしょう。具体的には、自らにあった工夫が必要です。
本文の作成には、以下の配信を参照しました。
「瞑想修行の道しるべ」より「【臨済録】やさしい現代語訳・解説 示衆4」(2023.01.21、2023.09.08)
臨済宗円覚寺派管長 横田南嶺老師「今日の言葉」より「心とは – 六回目のイス坐禅」(2023.11.22)、「形のないいのち」(2024.12.13)
『大日経』に説かれる自心を考える上でも、大いに参考になります。ありがとうございます。