『大日経』住心品より 三十種外道(2)

建立の浄(dag pa)4)と不建立の無浄(ma dag pa)5)と、若しは自在天6)(dbang phyug, īśvara 主宰神)と、若しは流出(るすい。’byin pa po, Sraṣṭṛ)7)と、及び時8)(dus, Kāla)と、

 

『大日経疏』巻第一より

經云建立(593a09淨・不建立無淨者。是中有二種計。前句謂有(a10建立一切法者。依此修行謂之爲淨。次句謂(a11此建立非究竟法。若無建立所謂無爲。乃名(a12眞我。亦離前句所修之淨。故云無淨也。*由(a13)不觀我之自性。有如是見生。廣説如上。

 

建立の浄の「建立」は「一切の法(それぞれ)を建立する」ことを意味し、その一切の法の体系に依拠して修行して浄に達すると主張する見解をいいます。不建立の無浄の「無浄」とは、その「浄を離れる」(その浄を越えて真実にいたる)ことであり、真我(は一切の法を超越し)、無為とする見解をいうようです。したがって、建立の浄は常見外道に、断見外道という二種の計(見解)に配して理解されます。

 

經云。(593a14若自在天。若流出及時者。謂一類外道計。自(a15在天是常。是自在者能生萬物。如十二門中(a16難云。若衆生是自在子者。唯應以樂遮苦。不(a17應與苦亦應但供養自在。則滅苦得樂。而實(a18不爾。但自行苦樂因縁。而自受報。非自在天(a19作。又若自在作衆生者。誰復作此自在。若自(a20在自作。則不然。如物不自作。若更有作者。則(a21不名自在。如彼論廣説也。

 

経に「若しは自在天、若しは流出、及び時」というは、一類の外道の計すらく、自在天は是れ、常なり。是の自在(= 自在天)は、能く万物を生ず、と。『十二門[論]』の中に難じて(= 批判して)云うが如し。若し衆生(は)是れ、自在の子ならば、唯だし楽を以て苦を遮すべし、苦を与うべからず。亦た但だし自在を供養せば、則ち苦を滅し楽を得べし、而も実には爾らず。但だし自(みずか)ら苦楽の因縁を行じて、而も自(みずか)ら報を受く。自在天の作には非ず。又た、若し自在、衆生を作(な)す(= 創造する)といわば、誰れか復た此の自在を作(な)す。若し自在、自(みずか)ら作すといわば、然らず。物(もの)の自作にあらざるが如し。若し更らに作者(さしゃ)ありといえば、則ち自在と名づけじ。彼の論に広く説くが如し。

 

有神論批判(自在天、主宰神否定論)の典型的な記述です。五島清隆「『十二門論』にみる主宰神否定論―苦の由来をめぐって―」『基督教研究』第64巻第1号が参照されます。「自(みずか)ら苦楽の因縁を行じて、而も自(みずか)ら報を受く」と「物(もの)の自作にあらざるが如し」とが矛盾するとお考えになるお方に対しては、法(もの)の生・滅は、さまざまな、因(直接的な原因)と縁(間接的な条件)との依存・関わりの中でのことであることをもって論破することができます。

 

計流出者。與建立(593a22大同。建立如從心出一切法。此中流出。如從(a23手功出一切法。譬如陶師子1埏填無間。生種(a24種差別形相。次云時者。與前時外道宗計少(a25異。皆自在天種類也
 

「流出を計す」とは、建立と大同なり。建立は心より(すなわち、根本原理から)一切の法を出すが如し。此の中の流出(= 世界創造者dhātṛ)とは、手の功に従って(すなわち、主宰神が)一切の法を出す(= 作り出す)が如し。譬えば、陶師子(= 陶士、陶芸家)の埏填(せんじき。土に水を加えて捏ねる、こと)無間にして(= 絶え間なくして)、種種の差別の形相を生ずるが如し。

 

次云時者。與前時外道宗計少(a25)異。皆自在天種類也
次に、時というは、與前の時外道(時間を宇宙創造の根本原理である主張する者)の宗計(siddhānta定説)と少しき異あり。(上記の三つは)皆な、自在天の種類なり。

 

この場合の「時」とは、シヴァ神を意味するようです。


(593a26大毘盧遮那成佛經疏卷第一
以上で、第一巻は、ほぼ概ね読み終えました。