『大日経疏』巻第一 愚童凡夫 我我所執
愚童義如前説。
凡夫者正譯應云異生。謂(c09)由無明故。隨業受報不得自在。墮於種種趣(c10)中。色心像類各各差別。故曰異生也。其所計(c11)我。但有語言而無實事。故云執著我名。言我(c12)有者。即是我所。如是我我所執。如十六知見(c13)等。隨事差別無量不同。故名爲分。次釋虚妄(c14)分別所由。故云祕密主。若彼不觀我之自性。(c15)則我我所生也。若彼觀察諸蘊。皆悉從衆縁(c16)生。是中何者是我。我住何所。爲即蘊異蘊相(c17)在耶。若能如是諦求。當得正眼。然彼不自觀(c18)察。但展轉相承。自久遠*以來祖習此見。謂(c19)我在身中。能有所作及長養。成就諸根。唯此(c20)是究竟道。餘皆妄語。以是故名爲愚童也。
愚童(bāla)の義は、前に説くが如し。
以下の記述を指します。『大日経疏』巻第一「(薩埵に略して三種あり。一には)(582c15)愚童薩埵。謂わく、六道の凡夫なり。実諦の因果(= 正しい因果の道理)を知らず、心に(c16)邪道を行じ、苦[の]因を修習し(= くり返し行い)、三界(欲界・色界・無色界)に恋著し、堅執して捨てず。故に以って名とす。」以下では、我見の執著に関して、愚童(bāla愚者)の説明がなされています。
凡夫(pṛtagjana)とは、正譯には異生(いしょう)というべし。謂わく、無明に由るが故に、業に随って報(苦・楽の報。異熟)を受けて、自在を得ず。種種の趣(= 六趣、六道)の中に堕して、(その六趣における)色心像類、各々に差別なり。故に異生と曰う。
その所計の我(ātman凡夫によって想定されるところの実体的な個我)は、但し語言(ごごん = ことばの表現)のみ有って、而も実事(dravya)無し(実在するものではない)。故に「執著我名」(= 我という名称に執著す)という。「我有」というは、即ち是れ、我所(ātmīya, mamaわがもの)なり。是の如くの我・我所執は十六知見等の、事に随って差別にして、無量に不同なるが如し。故に名づけて分(種類*prakara>khyad par)とす。
十六知見 『大智度論』巻第三十五
經(『大品般若』巻一、大正蔵vol.8, 221c)佛告舍利弗。菩薩摩訶薩行般若波羅蜜(319b07)時。應如是思惟。菩薩但有字。佛亦但有字。般(b08)若波羅蜜亦但有字。色但有字。受想行識亦(b09)但有字。舍利弗。如我但有字。一切我(ātman)常不可(b10)得。衆生(sattva)・壽者(jīva)・命者・生者(jantu)・養育(poṣa)・衆数(pudgala)・人・作者・使(b11)作者・起者・使起者・受者・使受者・知者・見者。是(b12)一切皆不可得。不可得空故。但以名字説。(それ以外のātmanの類義語として、manuṣya, nara, puruṣa, māṇavaなどがあります。)
次に虚妄分別の所由(ゆえん。虚妄分別が生じるきたるところ)を釈す。故に「秘密主、若し彼れ我の自性(= 本質)を観ぜられば、則ち、我我所生ず」という。若し彼、諸蘊(五蘊それぞれ)は皆な悉く衆縁(多くの因・縁)より生ずと観察せば(vi√car 分析、考察)、是の中に何者か、是れ我ならん。我は何れの所にか住する、蘊に即し、蘊に異し、相在すとやせん。若し能く是の如く諦求(たいぐ)せば、まさに正眼(しょうげん)を得べし。然るを彼、自(みずか)ら観察せず、但し展轉相承して、久遠(くおん)より以来た、この見(= 我見)を祖とし習うて、我(ātman)は身中に在って、能く所作及び長養あり、諸根を成就す。唯し此れのみ是れ、究竟の道なり。余(これ以外の考え方)は皆な妄語なりといえり。是れを以ての故に、名づけて愚童とす。