(1)菩提心生の答説
『大日経』住心品より
百六十心を越えて 廣大の功徳を生ず 其の性、常に堅固なり 彼の菩提生なりと知るべし
Tib. sems ni brgya rtsa drug cu las // ‘das nas byang chub nyid kyi phyir //
bsod nams ches ‘byung snying po ste // byang chub ‘byung ba skye bar ‘gyur //
百六十の心を越えて、まさに悟りそのものを目的として、(悟りの)心髄(*sāra)であり、多くの福徳より生じた、菩提の発生が生じることになる。
『大日経疏』巻第一より
次偈云(592a14)越百六十心生廣大功徳。其性常堅固知彼(a15)菩提生者。是略答初問。云何即知菩提心生。(a16)今佛告言越百六十相續心。即是淨菩提心。(a17)如有人問云何知此乳中醍醐生。答言若乳(a18)酪生熟蘇。麁濁變異之相。悉已融妙無復滓(a19)穢。當知即是醍醐生也。行者最初開發金剛(a20)寶藏時。見是心性如淨虚空超諸數量。爾時(a21)離因業生。佛樹牙生。此牙生時。已遍法界。何(a22)況枝葉花果。故云生廣大功徳。以過心行戲(a23)論故。不可破不可轉。猶若閻浮檀金。無能説(a24)其過惡。故云其性常堅固。若知自心有如是(a25)印。當知是菩提生也。
次の偈に「百六十心を越えて 広大の功徳を生ず その性、常に堅固なり 彼の菩提生なりと知るべし」というは、これ略して、初めの問の「云何んが即ち菩提心の生を知る」というを答(とう)するなり。今、佛(ほとけ)告げて言(の)たまわく、百六十の相続の心を越ゆるは、即ち是れ浄菩提心なり、という。
(1)菩提心生 云何んが(どのようにして、いま、この、わたしの)心に菩提(悟りの心)が生ずるか、に対する答説となります。
如(も)し人有って、云何んが、此の乳の中より醍醐(の)生ずることを知るやと問わば、答えて言うべし、乳と酪と生・熟の蘇との麁濁変異の相、悉く已に融妙にして、復た滓穢(しえ)なきが如し。まさに知るべし、即ち是れ醍醐の生なり、と。
「乳」(にゅう)を、いま・ここにある(、より正しくには、初法明道の段階に達した)自らの心にたとえ、「醍醐」(だいご)をさとりにたとえます。それに至るまでには、酪(らく)、生・熟の蘇(生蘇・熟蘇)の過程があります。Cf.『大般涅槃経』巻第十四「五味相生の譬」
行者(が)最初に金剛宝蔵を開発(かいほつ)するとき(= 初法明道)、是の心性は、浄虚空の如く、諸の数量(= 限定)を超えたりと見る。その時に、因・業(= 惑・業)の生(= 苦)を離れて、佛樹の牙(= 芽)生ず。此の牙、生ずる時に、已に法界(ほうかいdharmadhātu真実なる仏世界)に遍ず。何に況んや、(その過程における)枝・葉・花・果をや。故に「生広大功徳」という。心行(citta-gocara)(の)戯論(prapañca)を過ぎたるを以っての故、破すべからず、転ずべからずこと(、退転しないこと)、猶おし閻浮檀金(えんぶだごん)の能く其の過悪(欠点)を説くことなきが如し。故に「其性常堅固」という。若し自心に是の如くの印(*cihna: a mark, sign, characteristic固有の特徴。本性)ありと知るは、まさに知るべし、是れ菩提生(= はじめての菩提の発生)なり。