『大日経疏』は、「傷(苦)」の原因は、暗中、すなわち迷いの生存における利宝であることを主張しています。利宝とは、自心であり、浄菩提心、白浄信心をいいます(2025.05.11配信)。それを、煩悩を生じていまうのも、良い心をも含めて、“仏心”の働きである、と受けとめてみようと考えています。その当否、もしくは表現の適切・不適切はここでは問わないとして、その定義からして、生来そなわっているであろうはずの(無為である、ということ)の“仏心”が誤って機能してしまっているのであるから、それを正す必要があるということです。それを正す方法が『大日経』には、詳細に説かれているのだ、そしてそのうちのひとつぐらいは、私でも実践可能のものがある、という期待をもって、『大日経疏』を読み進めています。
煩悩を生じるのも“仏心”の働きであるとは、怒ってしまうのも“仏心”の働き、あれが欲しいなと欲心を生じるのも“仏心”の働き、などなど、すべてです。なんでも“仏心”の働きに帰するのは、以前の私なら、絶対に許されない発想でしたが、いまはよく考えたうえで、受け入れようとしています。
そんなおり、毎朝楽しみにしています、円覚寺さまYoutube 2025.05.13「今日の言葉・仏心光明の中」がとても、心強く拝聴することができました。少々省略していますが、ほぼ全文です。
「仏心光明の中」という言葉は朝比奈宗源老師(筆者補:1891-1979静岡県清水市のお生まれ)がよくお使いになり、お書きになった言葉であります。「仏心光明の中」の解説を記します。
円覚寺の朝比奈宗源老師は、四歳で母を亡くし、七歳で父を亡くされています。そんな体験から幼い頃より、死について子どもなりに考えるようになったそうです。老師の父が亡くなった翌年、お寺の涅槃会にお参りされました。涅槃会とはお釈迦様がお亡くなりになった命日の法要です。お釈迦様が今まさに涅槃に入ろうとされている画を掲げて法要を営みます。幼い老師は、その画をご覧になって、お釈迦様がまるで寝台の上でうたた寝をしているような姿に驚かれました。どうして生きているかのように画かれているのかと寺の和尚に尋ねると、和尚は「お釈迦様は死んでも本当は死んでいない。だから死んだようには画かないのだ」と言われたのでした。幼い老師は驚かれました。「死んでも死なないいのち」とはいったい何かと不思議に思われ、その答えを求めて十歳で出家し、坐禅の修行を経て悟りを開かれました。そんな悟りの世界を朝比奈老師は分かりやすく「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引きとるので、その場その場が仏心の真只中であります。人はその生を超え死を超え、迷いをはなれ、垢れをはなれた仏心の中にいるのだという、人間の尊いことを知らないために、外に向かって神を求め仏を求めて苦しみ、死んだ後のことまで思い悩むのですが、この信心に徹することができたら、立ちどころに一切解消であります。」と説かれています。
「常にお互いが頼りにし、お互いの生活の根底としている意識そのものには実体は無く、その意識の尽きたところに永遠に変わらぬ、始めもなく終わりもなく、常に清らかに常に安らかに、常に静かな光明に満たされている仏心がある」というのであります。みんな仏心の光明の中に生かされています。
というものです。
朝比奈宗源老師の『しっかりやれよ』という著書にはこんな風にも説かれています。「お釈迦さまは、人間の世が無常であり、また悲しみや苦しみの多いのをご覧になって、それから免がれる道は――とご修行なさった結果、お悟りをされたのでありますが、お釈迦さまのお悟りの世界は、いつもいう佛心の世界であります。佛心の中には、生き死にはないのです。姿は、こうして出来たり消えたりもしますけれども、佛心の上には生き死にはない。罪咎(つみとが)もまたそこまでは届きませんから、佛心の中は、いつも浄らかであり、いつも寂かであり、いつも安らかであります。それが私どもの心のおおもとで、私どもが生きている間は、こうして、好きだ、嫌いだ、嬉しいわ、悲しいわといって、騒いでおりますけれど、これはこういう体のある間のことで、ひとたびこの体を放り出してしまえば、みなその有難い佛心の中に戻るといってよろしいのであります。ですから、これをよく信じて、私どもは気持を決めてゆかなければなりません。」と説かれています。
朝比奈老師の『覚悟はよいか』には、「一切衆生は悉有仏性なのだ。すべての生きとし生けるもののなかに、仏心は生きどおしに生きている。これを白隠禅師(1686-1769静岡県沼津市原)は、なぁ、『衆生本来、仏なり』といわれた。禅の修行といっても、所詮は、己の内なる仏性との出会いなのだ。にもかかわらず、禅宗に因縁を結びながら、多くの信者たちは、自分でこの修行する道に踏み込むことができず、そのために仏道から遠ざかってしまっている。禅は悟らなきゃわからん、という禅者への戒めが、一般の信者にまで手枷足枷になっている。なんと、むごいことよのう。みんな等しく仏心に照らされているというのに、そのことに気づかずにいる。『衆生本来、仏なり』という白隠さまの言葉はどうなっちゃったのだ。思い上がってはいけない。仏教信徒たるものは、お釈迦さまの昔から、三宝帰依を信条としてきた。仏と法と僧に帰依する。平たくいうと、信心するということだ。信徒たちは、自ら悟らなくても、仏を信じ、その教えを信じ、その僧の教説を信じることで、大安心を得られるとされてきた。僧たるものは、多くの信徒を信心の道に導かねばならない。それゆえの『僧』なのではないか。儂(わし)の『仏心の信心』の提唱は、これだ。簡単なことだ。僧として、しなきゃならんことをするまでのことだ。禅は修行者だけの宗門ではない。自ら修行できぬものは、仏心を信ずればいい。信ずれば救われるのではなくて、すでにきみは救われているのだ。すべての人々も、救われているのだ。そのことを信じさえすればいい。」と説かれています。
禅の修行ではまず内なる仏性との出会いがあり、その仏性に目覚めたならば、それは我が内のみならず、天地一杯に満ちていることが体得され、仏心の中にいることの安らぎになるのです。そこで朝比奈老師は、更に具体的に仏心の信心を説いてくださっています。「だから儂は、誰でも毎朝仏前に正坐して、坐禅の要領で、腰をたて、背骨をまっすぐにし、頭のてっぺんで大空をつき上げるような心持で静かに手を合せ、腹の底から、『南無釈迦牟尼仏』と七遍以上、多ければ多いほどよいが、とにかく七遍以上唱えるように勧めている。こうして常にわれわれの仏心をもってお釈迦さまの仏心を念じていると、仏心の徳が自然とにじみ出て、心の暗かった人も明るくなり、狭かった人は広くなり、体も丈夫に、日々を朗らかに暮すことが出来、いざという時にもあわてることがない。儂は誰もがお釈迦さまの尊い悟りのめぐみにうるおうことが出来るようにと、あえてこの信心を説いて、はや三十余年になる。これが一禅者としての儂の修行の結論だ。現に多くの人がこの『仏心の生活』によって大きな力を得てくれている。有難いことだ。」というのであります。南無釈迦牟尼仏と唱え、そして、朝比奈老師の説かれた、「人は仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る、
生まれる前も仏心、生きている間も仏心、死んでからも仏心、仏心とは一秒時も離れてはいない」という言葉を唱えると、仏心の中に溶け込むような思い、安心感に包まれるものです。
とても心強く拝聴することができました。ありがとうございます。