般若心経については、皆さま方もよくご存じの通りであるかと思います。わたしも一通りは学んではいますし、また毎日のようにお唱えもします。本日もお唱えしました。僧侶希望者のお方にお話しすべき課題のひとつに『般若心経』があります。要領よく、簡潔にお話しするために、あらためて学び直しています。

 

お経はその“冒頭部分”が重要です。鋭いお方は、そのその“冒頭部分”を聞いただけでも、そのお経が何を説かんとしているかは分かるといいます。またもっと鋭い人は、タイトル(経題)を聞くだけもその意図を汲む、といいます。私に代表される普通の者は、お経をひとたび聞いただけでは駄目、繰り返し、繰り返し学びをかさねて、やっと少しは理解できるかな、お人にも恐るおそるお話しできるかな、という程度です。

 

ここでは「五蘊皆空」について、そのポイントだけをお話しします。

 

五蘊は色蘊、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊をいいます。「蘊」は集まり(集合)という意味です。“色(いろかたち)の集まり”、ないし、“識(認知・識別作用)の集まり”が空である、何のことかといいますと、色にも、ないし識にも、いろんな種別があるということです。そして、いろんな“色(いろかたち)の集まり”とは、端的にいえばこの“身体”です。いろんな“識の集まり”とは同じく、この(citta)です。心には眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識が数えられます。受(感受)にも苦・楽・倶非(どちらでもない)の種別があります。想は、(心中で、さまざまに)表象すること、すなわち対象の特徴を捉えることをいいます。行は、思考行為をはじめとする、心の(さまざまな)発動をいいます。受、想、行の三つはいずれも、心作用(caitasika)となります。心に付随する心の作用です。このふたつが、端的にいえば“精神”です。

 

私たちの存在とは、実は、身体と精神から成り立っているのであり、“私たちの存在自体はない”とするのが、仏教の考え方です。身体と精神とが有機的に作用している状態を、仮に、他者と区別して、分かりやすいように、“私”としているのです。それを“五蘊仮和合”(ごうんけわごう)といいます。『般若心経』の冒頭の「五蘊皆空」(ごうんかいくう)とは、もちろん“五蘊仮和合”である私の存在の非実在性はもちろんのこと、私という存在を構成している身体も精神(心と心作用)も実在ではない、といっているのです。

 

僧侶希望者のお方が、鋭いお方であることを期待します。