『大日経疏』巻第一より
復觀内身五蘊。亦如聚沫泡(589b28)炎芭蕉幻化。自求性實尚無所有。況於其中(b29)而得有心。如是從麁至細去廣就略。乃至現(c01)在一念識。亦無住時。又復從衆縁生故。即空(c02)即假即中。
復た内身の五蘊を觀ずるに、亦た(色蘊は)聚沫・(受蘊は)泡・(想蘊は)炎・(行蘊は)芭蕉・(識蘊は)幻化の如し。自(みずか)ら、性實(*svabhāva実体)を求むるに、尚し所有なし。況んや其の中に於いて而も心あることを得んや。是の如く、麁より細(色蘊から識蘊)に至り、広を去け略に就くに、乃至、現在一念の識(いま、この瞬間に生じている識、判断・認識)も、亦た住時なし(= 瞬時に滅する)。又復た衆縁より生ずるが故に、即空・即假・即中なり。
まずここまでは、空・仮のあり方の説明あるとし、次の記述で、中が示されると解釈して、読んでいます。
なお、空(くう)・仮(け)・中(ちゅう)の三諦(さんだい)については、「すべての存在は実体を有しないとする空諦、すべての事象は因縁によって生じているとする仮諦、そして、その空諦と仮諦を踏まえた上で、すべての存在や事象は真実の相を示しているとする中諦の三つ。天台宗において、この世の真実の相を示す手だてとして説かれた」とあります。Web版『新纂浄土宗大辞典』
五蘊がそれぞれ、聚沫・泡・炎・芭蕉・幻化の如く、「不堅固(無堅固)」、実体なきものであることは、般若経典などに説かれています。
玄奘訳『大般若波羅蜜多經』巻第三百五十、大正蔵No.220.vol.6
佛(797a09)言。善現。若菩薩摩訶薩安住靜慮波羅蜜多(a10)修學安忍。觀色如聚沫。觀受如浮泡。觀想如(a11)陽焔。觀行如芭蕉。觀識如幻事。作是觀時。於(a12)五取蘊不堅固想常現在前。如是觀時。復作是念(a15)諸法皆空離我我所。誰能割截。誰受割截。Cf.鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜經』巻第二十、大正蔵No.223, vol.8,367a21-25.
鳩摩羅什訳『金剛般若経』大正蔵No.235.vol.8「何以故(752b28)9一切有爲法 如夢幻泡影(b29)如露亦如電 應作如是觀」
遠離一切戲論。至於本不生際。本(589c03)不生際者。即是自性清淨心。自性清淨心。即(c04)是阿字門。以心入阿字門故。當知一切法。悉(c05)入阿字門也。已説觀諸法實相。
一切の戲論を遠離して本不生際(ほんぷうしょう・ざい)に至る。本不生際(あるいは、本不生際に至る)とは、即ち是れ自性清淨心(そのもの。あるいは、自性清淨心を識知すること)なり。自性清淨心とは、即ち是れ阿字門なり。心、阿字門に入るを以っての故に、當さに知るべし、一切の法、悉く阿字門(= 本不生際)に入る。(阿字を観想することは、自性清淨心を観想すること、本不生際に至ることを目的としている。)已に諸法の實相を觀ずることを説きつ。
阿字門に入ることによって、「仮」(および「空」)が「本有」として、その、本(もと)よりの、自然(じねん)としてのあり方として受けとめられることになるのでしょう。泰廣師は「密教に『仮』はない」と教えられています。
「本不生際」という表現は『大日経疏』のこの用例にはじまるようです。「本不生際」の「際」とは実際(bhutakoṭi)の「際」で、「(自らの存在の)本源的な根拠としての本不生(白浄菩提心)」というほどの意味であると、いまは理解しておきます。それは、泰廣師の「衆生本具の白浄菩提心は、まさに阿字本不生である」との教示をうけたものです。
泰廣先生がご遷化されて、あと二日で三か月目となります。(一日のお勉強が終わったのに、寂しさを感じます。)