秘密主、心は眼界に住せず、耳・鼻・舌・身・意界に住せず。見に非ず、顕現に非ず。
Tib. sems de ni mig la mi gnas / rna ba ma yin / … yid la mi gnas so // その心は、眼にあるのではなく、耳[にあるの]ではなく、(中略)意にあるのではない。※ここで「ある」と和訳したが、その意味は「住」「住在」、そこに存在を留める、というほどの意味です。
漢訳上の「眼界」乃至「意界」は、六根・六境・六識の十八界の分類方法のうちの「眼識界」乃至「意識界」の六識界を意味しているようです。「眼識界」乃至「意識界」の六識と、六根の「意界」をあわせて、界門の七心界(過去現在の心王)というのですから、ここでの「心」との関係が問われることには道理があります。なおチベット訳は「眼」乃至「意」とあり、それは五根・意根の六根(認識器官、能力)を意味するようです。したがって、チベット訳文は、十二処の内六処を取り上げていることになります。なおチベット訳文には漢訳文の「見に非ず、顕現に非ず。」の一文はみとめられません。
『大日経疏』巻第一
前説不在三處。已攝一切法。(588c22)爲未悟者。復一一歴法分別。若心不與諸趣(c23)同性。爲住眼界等耶。乃至住意界耶。若心住(c24)眼界者。眼從衆縁生故。性相自空無有住處。(c25)況復心之實相住在眼中。如眼界者。乃至陰(c26)入諸法皆應廣説。
前に(心は)三処(内・外・中間)に非ずと説くに、已に一切の法を摂すれども、未悟の者のために、復た一一に法に歴(へ)て分別す。若し、心[は]諸趣(六趣・三界)と同性ならずんば、眼界(=眼識界。見るという認識作用)等(『義釈』の法)に住すとせんや。乃至、意界(=意識界。思考するという認識作用)に住するや。若し心、眼界(=見るという認識作用)に住せば(=住すると仮定したとしても)、眼(見る器官、能力)は衆縁より生ずるが故に、(眼界も眼もともに)性相自ら空にして、[心の]住処(として)あることなし(= 内処についての考察)。況んや(だから、どうして)、復た心の実相は眼(見る器官、能力)の中に住在せんや(= 色蘊)。眼界の如く(/如きは)、乃至、陰入(五蘊・十二処)の諸法も皆な広く説くべし。
ひととおり、理屈が通るように読んでみましたが、「眼界」乃至「意界」を、「眼」との対比で、「眼識界」乃至「意識界」と理解したことが本当に正しいのか、少し疑問となります。ここでは、自心は、衆縁より生ずる七心界には摂せられない、という理解であることだけは確認できたかと思われます。なお経文の「見に非ず、顕現に非ず。」については、『大日経疏』では後述されることになりますので、いまは触れず、後日考察することにします。