こんかいは、第一章「『実践倫理』貫く」の章末となる部分pp,48-53からのご紹介です。
実践倫理は現実大肯定の原則に基づき、易や流行も肯定する。(「易」は入れかえる、取りかえる、の意味。「不易」の誤植の可能性も考慮されますが、「や」という接続詞ですので、「易」でも意味は通じます。いずれも「変化」として読み、先を進みます。)しかし、それはあらゆることを無条件で認めるということではない。(私としては、「無条件で認め、受けとめ」、と理解したいと思います。そして)正しいもの善なるものとして(止揚、変革したうえで)全面的に肯定し(「全面的に」とは、いかなる意味か。「無条件で認めるということではない」との関係は。わたしは、煩悩を智慧となしたうえで、その煩悩を「全面的に」と理解します)、新たに不易の中に折り(= 織り)込んで(いく。その過程で)よいものとそうでないもの、人間の生き方を惑わしているものを峻別していくという(という手続きが必要であるという)ことである。
私の読みを( )内に入れ込み、少し読みづらくなりました。また意図するところも多少変わってしまったようですが、お許しを。そして、次の文書が
「“変革”を行なうときは、より高度な安定や理想がハッキリと描かれていなければ、」なりません、とあります。
このことは、自己を変革、向上させる場合でも、同じです。それは、さとり、滅諦を、そして、もちろん苦諦と集諦をも、よく理解してから、道諦を進む必要があるということです。
「人間として本当に美しい生き方の基本には」、実践倫理(、仏教的には、四聖諦の教え)があるのです。
以上で、上廣榮治〚こころの泉〛第一章を、私なりの僧侶としての目線で(、決して上から目線ではなく)読んでみました。以後の章立ては次の通りです。
第二章「自分」を磨く
第三章「家庭」を育む
第四章「社会と生活」を築く
第五章「日本」を考える
第六章「地球と自然」を守る
これからは、ところどころを読んでみます。もうしばらくお付き合いくださいませ。