『大日経疏』巻第一 八功徳水・如意宝珠のたとえ(再考)

 

有る諸の外道の計すらく(ある種の外道が考えることには、)我性(ātman自我。我そのもの)は即ち欲界に同なり、或いは色・無色界に同なり、乃至、非想處(= 無色界の非想非非想処)は即ち是れ涅槃なりと謂い、或いは梵王(Brahmā)・毘紐天(Viṣṇu)等一切の法(、すなわちこの世界)を生ず(= 創造した)と言う。然も(= しかしながら)此の三界は皆な悉く衆縁(多くの因・縁)より生ず。そ(の三界)の自性を求むるに都(すべ)て不可得なり。況んや心性(= わが心そのもの。心の実相)をして、彼(の三界)の性に同じぜしめんや。

 

ここでの主張も微妙である、といえます。ただ、心の実相(大日尊)は、決して、梵王・毘紐天等の「創造主」のごときものではない、ことにはこれからも記憶しておくべきです。そのことは次の記述における「八功徳水(とそれを受く所の器)」と「如意宝珠」のたとえによっても知ることができます。

 

次廣分別無量諸衆生(588c07)趣。一一言之。皆不與彼同性。譬如虚空中雨(c08)八功徳水。一味淳淨。隨所受之器種種差別(c09)故。或辛或酸。或温或濁。然八功徳性不與彼(c10)同。温解濁息時。清涼如故未曾變異。

 

次に廣く(個々別々に)無量の諸の衆生趣を分別して(天・龍・夜叉等に分けて)、(その)一一に之を言うに、(心は)皆な彼れと同性にあらず(なりと)。譬えば、虚空の中(なか)より八功徳水を雨(ふ)らすに、一味淳淨なれども、所受の器に隨って、種種に差別なるが故に、或いは辛(から)く、或いは酸(す)く、或いは温(あたた)かに、或いは濁(にご)れり。然れども、八功徳の性は彼れと同ぜず。温解けて濁(じょく)息(や)む時には、清涼なること故(もと)の如くして、未だ曾て変異せざるが如し。

 

まずは、「八功徳水(とそれを受く所の器)」のたとえです。八功徳水は心(「如来応正等覚」)をたとえ、器はさまざまな衆生趣をとたとえます。八功徳水は甘・冷・軟・軽・清浄・不臭・飲時不損喉・飲已不傷腹(あるいは、澄浄、清冷、甘美、軽軟、潤沢、安和、飲時除飢渇、飲已長養諸根)の八つの特徴を有して「一味淳浄であるけれど、その水が個々の器に盛られると、さまざまな味わいに感じられ、時には熱を帯び、濁ってしまう、すなわち変化するといいます。しかし「八功徳の性は彼れと同ぜず」とは、その盛られた水は八功徳の性質を失わないこと(変異しないこと)を意味します。ですから、「温解けて(水温がさがって清冷となり、)濁息(や)む時には、清涼なること故(の性質)の如くして」、本来の性質に立ち返るというのです。次は「如意宝珠」のたとえです。

 

又如眞(c11陀摩尼自無定相。遇物即同其色。然其寶性(c12不與彼同。若與彼同性者。是色隨縁生滅時。(c13)寶性亦應生滅也。

 

真陀摩尼(cintāmaṇi)の自らの定相(= 決まったすがた)無くして、(対象となる)物に遇えば(= 向き合えば)、即ち其の色を同ずれども(= 如意宝珠に映じる色に変化が生じるけれども)、然も其の宝性(定相なしという、如意宝珠という性質)は彼れ(= 対象となるもの)に同ぜず。若し(仮に)彼れと同性ならば、是(の如意宝珠に映じる)色、縁に隨うて生滅(変化)する時、宝性も亦た生滅(変化)すべきが如し[といわなければならない]。

 

如意宝珠(「真陀摩尼」)は心(「如来応正等覚」)をたとえ、(如意宝珠に映じる)色はさまざまな衆生趣をとたとえます。如意宝珠にはさまざまな色合いが映じるとしても、如意宝珠には生滅(変化)は生じることはありません。なぜなら「定相なき」というのが、如意宝珠の性質であるから、というのです。

 

「八功徳水」のたとえと「如意宝珠」のたとえの共通項はともに「性質を失わないこと」であり、それぞれの特徴は、八功徳水は、いかなる器に盛られたとしても八つの特徴を有する「一味淳浄」であり、如意宝珠は、さまざまな色合いが映じる、すなわち、あらゆる願いを叶えるとしても、「定相なき」(透明性)という性質を変えないということにあるのです。このことが、心の実相(大日尊)は、決して、梵王・毘紐天等の「創造主」のごときものではないことの説明となっているのか、とてもむつかしいです。たとえの意味を正しく理解することは、とてもむつかしいですが、いまはそのままににて先を読み進めます。

 

なお、如意宝珠が菩薩の共通のアイテム(持ち物)として用いられることについては、「(第二院の諸菩薩衆は)通じて真陀摩尼の印を用いよ」『大日経疏』巻第六、そして、如意宝珠は、無辺の行願の集成である浄菩提心にたとえられることについては「(一切諸仏菩薩の真陀摩尼の印)これは是れ浄菩提心の無辺の行願の集まり成れる所なり」『大日経疏』巻第五とあります。