僧侶希望者のお方に対して、仏教に好感・興味をもっていただけるよう、お伝えするためには、まず何を、そしてどのようにお話しすべきか、これから考え直さなければなりません。

 

仏教の基本的用語とされるものにはいろいろありますが、まずは仏法僧の三宝です。どのようにお伝えすべきか。テキストを用いるなど、いろいろの仕方がありますが、まずはフリーハンドでのお話しとなります。

 

仏さまには、いつくかの種類分けがあります。基本は三種類です。

 

まずは、お釈迦さまにように歴史的人物としての仏さまです。人間として(すなわに、人間としての姿をとって)ご誕生し、出家・修行をして、苦行のすえ、ブッダ(Buddha覚者)として、お悟りを開かれます。それは35歳のときでした。その後、80歳までみずから悟られたダルマ・法(dharma)を説き示し、多くの人びとを解脱・涅槃へと導かれました。(お話しすときは歴史的、地理的なデーターをお示しします。)

 

お釈迦さま以外にも、仏さまがいらっしゃいます。たとえば、阿弥陀さま、お薬師さま、奈良の大仏さまなど。また観音さまお地蔵さま、そしてお不動さまも、大きな意味での“ほとけ”さまです。(ほとけという語の用法として、仏、ほとけ、ホトケの三種があります。)これらの仏さまは、架空の(事実に基づかず、想像によってつくりあげられた)というよりは、ヴァーチャルな(Existing in essence or effect though not in actual fact or form)存在として捉えることができます。これらの仏さまは、お釈迦さまよりも(といえば、申し訳ありませんが)、仏・覚者としては本質的であり、効果的な存在である、といえるのです。ひとことでいえば、宗教心・信仰によって求められた仏さま一般をいいます。まずは、病気平癒を求める、死後の安楽を求める、子宝・安産または子の健やかな成長を求める、渡航や道中に無事を祈る、五穀豊穣などを求める、交通安全・商売繁盛などを求める、などのこの世での利益を求めることから始まりますが、徐々に仏教的にも、本質的な信仰へと導いてくださいます。

 

仏さまはこの二種に限られるのではありません。(我田引水ではありませんが)マンダラの(中心であり、全体である)であり、大日と呼ばれる仏さまは別枠(特別)です。大日と呼ばれる仏さまは、私たちがその存在に気づくか気づかないかにかかわらず存在しています。いわば自然科学的・物理学的な意味においても存在しうる仏さまなのです。でも決して創造主ではありません。(私たちの生存・いのちはさまざまな因・縁によって生じていたものとして、仏教を学ぶ私などは理解しています。)しかし、私たちの存在を常にその根底から支え、私たちは自らの身口意の活動を通して、その仏さまを表現する、現実化することができます。歴史的人物としてのお釈迦さまも、そのお悟りの瞬間(悟りは不可逆的で、一瞬なるもの、ひとつの完全なピークpeakなのでしょうが、修行というつみ重ねが必要)、すべてのものごとの真実(十二支縁起)を覚知されたのですが、それを私たちは、大日という仏さまの全貌を自覚したと受けとめるのです。

 

次は法宝についてです。仏さまのあり方が理解できれば、あとはさほどむつかしくありません。

 

まず、歴史的人物としてのお釈迦さまの説かれた教えは、いまは原始仏典(阿含āgamaは「伝承された教説(、その集成、部nikāya)」の意)として伝えられています。(もちろん、お釈迦さまのおことばそのものがそのままではなく、後世の編纂になります。)一方、般若心経や法華経、または浄土三部経などは、お釈迦さまを教主(きょうしゅ)として語られますが(「如是我聞」)、その成立は西暦紀元前後、紀元後のことであり、浄土三部経は宗教心・信仰によって求められた、阿弥陀さまを主題としています。法華経(全八巻)はお釈迦さまを主題としますが、(その前半部分においても)必ずしも歴史的人物としてのお釈迦さま(のことば、活動を記したもの)ではなく、(特に後半部分は)歴史的人物としてのお釈迦さまが亡くなられて後(いわゆる仏滅後五百年ころ、無仏の時代になって)求められたお釈迦さまを主題しています。それは大乗経典と呼ばれます。

 

大日という仏さまを主題とする経典は、いわば密教経典であり、それは、歴史的人物としてのお釈迦さまのお悟りを主題としているのです。でも、そのお悟りは歴史的な時間・地域的な空間、あらゆる限定を超えています。密教経典は、自らの心の本質を知ることによって、お釈迦さまのお悟りと同等な悟り(阿耨多羅三藐三菩提)の体得を目指すのです。密教経典には、大日経、金剛頂経などがあります。

 

僧宝は、お釈迦さまのご存在、その教えに信頼をおき、その教えを実践し、みずからの向上、そして他者への指導・救済に努める者たちの集団を意味します。いまでも東南アジア諸国(パーリ語仏典を用います)中国・日本(漢訳仏典を主とします)、そしてチベット仏教圏内(チベット語訳仏典を用います)において僧侶・僧団は修行活動を行っています。それらは南伝仏教北伝仏教に分類され、チベット・ネパール等の仏教はその使用言語の違いから、チベット伝仏教として設けることもできます。

 

以上、三宝の初歩的な説明として作文してみましたが、少し書きすぎた感があります。でもお伝えしたいことがらでした。実際では、一時間を三回分のお話しとなるでしょう。

 

仏法僧の三宝に対する帰依をもって、仏教の学びははじまります。