『大日経』住心品第一より 心は三界・六道と同性にあらず

 

祕密主、心は欲界と同性(= 欲界と[本]性を同じくするもの)に非ず、色界と同性に非ず、無色界と同性に非ず。

 

Tib. … ‘dod pa’i khams kyi rang bzhin ma yin /…[心は]欲界を本性とするものではない。

 

天(deva)・龍(nāga)・夜叉(yakṣa)・乾闥婆(gandharva)・阿脩羅(asura)・迦樓羅(garuḍa)・緊那羅(kiṃnara)・摩睺羅伽(mahoraga)・人(manuṣya)・非人(amanuṣya)の趣(gati境遇)と同性に非ず。

Tib. … mi dang / mi ma yin pa’i ‘gro ba sems can ris mthun pa’i rang bzhin ma yin no //人・非人と同類(*nikāyasabhāga-: samānajātīya-)の趣を本性とするものではない。

 

『大日経疏』巻第一より

亦是對諸妄執。顯示自心無變易。故説(588c02言此心不與三界同性也。有諸外道計。我性(c03即同欲界。或同色無色界。乃至謂非想處即(c04是涅槃。或言梵王毘紐天等生一切法。然此(c05三界。皆悉從衆縁生。求其自性。都不可得。況(c06令心性同於彼性耶。

 

亦た是れ(= 上記の経文は)、諸の妄執に対して、自心の變易(へんにゃく。変化すること)無きことを顯示するなり。故に説いて、此の心は三界と同性にあらずという。

 

心の本質、心それ自身は変化しない、という主張が(さらりと)示されています。つまり「本来不生・本有常住」とする、という理解です。しかしこの見解は、従来の仏教的理解といかに異なっているか、そして、どのように仏教的に理解できるのかを正しくお伝えすることが課題です。

 

有る諸の外道の計すらく(ある種の外道が考えることには、)我性(ātman自我。我そのもの)は即ち欲界に同なり、或いは色・無色界に同なり、乃至、非想處(= 無色界の非想非非想処)は即ち是れ涅槃なりと謂い、或いは梵王(Brahmā)・毘紐天(Viṣṇu)等一切の法(、すなわちこの世界)を生ず(= 創造した)と言う。然も(= しかしながら)此の三界は皆な悉く衆縁(多くの因・縁)より生ず。そ(の三界)の自性を求むるに都(すべ)て不可得なり。況んや心性(= わが心そのもの。心の実相)をして、彼(の三界)の性に同じぜしめんや。

 

ここでの主張も微妙である、といえます。心の実相(大日尊)は、決して、梵王・毘紐天等の「創造主」のごときものではないことには注意すべきなのですが、なかなか正しく理解することは難しいのです。ここては次の記述における「八功徳水と受け手」と「如意宝珠の定相なきこと(透明性)」のたとえでもって示されます。いまは後者「如意の透明性」のたとえのみを示します。

 

次廣分別無量諸衆生(588c07)趣。一一言之。皆不與彼同性。譬(中略)又如眞(c11)陀摩尼自無定相。遇物即同其色。然其寶性(c12)不與彼同。若與彼同性者。是色隨縁生滅時。(c13)寶性亦應生滅也。

 

次に廣く無量の諸の衆生趣(天・龍・夜叉等)を分別して、一一に之を言うに、(心は)皆な彼れと同性にあらず。譬えば(いまは「八功徳水と受け手」のたとえは省略します)眞陀摩尼(cintāmaṇi)の自らの定相(= 決まったすがた)無くして、(対象となる)物に遇えば(= 向き合えば)、即ち其の色を同ずれども(= その色と同じくする、すなわち色を変えるけれども)、然も其の寶性(如意宝珠そのもの)は彼れ(= 対象となるもの)に同ぜず。若し(仮に)彼れと同性ならば、是(の如意宝珠の)色、縁に隨うて生滅する時、寶性も亦た生滅すべきが如し。

 

如意宝珠は、「意のままに」、対象者のその願いに応じて(諸もろの縁に依って)「色を変える」、すなわち、その機能をいろいろに展開・発揮させます。しかしこれを、如意宝珠そのものの変化であると理解することはない、というのです。なぜなら、如意宝珠そのものは「定相」を有さない(無自性である)からであり、如意宝珠そのもの(宝性)には、変化・生滅はない、「縁に隨うて、変化・生滅」が生じるのみとするからです。これが如意宝珠を心の実相、菩提心と解する理由であり、すべての菩薩の共通のアイテム(持ち物)として用いられる理由なのです。あえて、分かりやすい別なたとえを用いるとすれば、鏡であり、しかし鏡といっても、鏡という物体ではなくて、その鏡面の働きが、如意宝珠のあらゆる願いを叶える、すぐれた機能にたとえられるのです。そして、鏡面に映る姿形は、さまざまな因・縁に依って生じているのであって、鏡が、鏡面がその姿形を生じたのではないのです。こころは、内外の処を縁として、さまざまにその働きを変えます。心は無自性です。心は正しくものごとを映し、認識しています。しかし、その働きを正しく機能させないのは、自我意識という殻なのです。