部分を全体と思い込むことへの批判

 

『大日経疏』巻第一より

(588b19)如有外道阿闍梨。(中略)各隨所(b25遇情計不同。雖復更相是非。終不能識其眞(b26體。若瑜伽行者。開發心明道時。照見心王如(b27來。如大明中目覩衆色。則不生如是諍論也。

 

有る外道([anya-]tīrthika)阿闍梨の如きは(中略)各々(みずから)の遇う所に(すなわち、見たところ、聞いたところ、思考するところに)随うて情計(= 分別すること)不同なり(。それは、自分自身の主張に讃仰すべきところありとするからである)。復た、更相(たがい)に是非すと雖も、終(つい)にその真体を識ること能わず。若し瑜伽行者(yogin, yogācara.ここでは、真言密教の行者)、心明道(Cf. 初法明道)を開發する時(「心の実相を明か」すとき、に同じ)、心王の如來を照見する[。その]こと、大明の中に、目(まなこ)に衆色(多く、ここでは、すべての色形)を覩(み)るが如く[して]、則ち是の如くの諍論(*vivāda争い論ずること)を生ぜず。

 

「諍論を生」ずることがないのは、「いかなるものをも根本的なるものとして絶対視すること」がないからであり、それは「自我意識をもって考え」ないからであり、「真知によってさとっていて、あらゆる宗教的真理を完全に理解している」からである、といいます。(『スッタニパータ』第4章第4、第5経)ここでは、それを「心王の如來」(自心の実相。大日尊)を照見する、と表現されています。なぜなら、自らの心の観察を通して、一切の法を正しく知ることに達しようとすることが『大日経』の基本姿勢であるからなのです。

 

『スッタニパータ』については、荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄先生の和訳(講談社学術文庫版2015)に拠りました。