『大日経』住心品第一より 自心は色(いろ・かたち)にあらず

 

祕密主、如來應正等覺は、青に非ず、黄に非ず、赤に非ず、白に非す、紅紫に非ず、水精色に非ず(以上は、いわゆる顕色。前者四つは本色)。長に非ず、短に非ず、圓に非ず、方に非ず(以上は形色)。明に非ず、暗に非ず(この二つは顕色)。男に非ず(男性性の形態をしている、の意か)、女に非ず、不男女ならざるに非ず。

 

漢訳文では、主語は「如來應正等覺」のようであり、したがって、「如来の正しい悟り」は、と読まざるを得ないのでしょうが、『経疏』は「即以心爲如來應正等覺」と説明するように、「如來應正等覺(のごとき)心」は」と読んでいます。チベット訳本では「心(自心)」を主語として明記されると同時に、「如來應正等覺」は「ご覧になられない」という一文を加えた文章となっています。

 

gsang ba pa’i bdag po sems de ni de bzhin gshegs pa dgra bcom pa yang dang par rdzogs pa’i sangs rgyas rnams kyis ma gzigs / [mi gzigs /] gzigs par mi ‘gyur te / sngon por ma  yin / ser por ma yin /…(秘密主よ、心(=自心svacittaそれぞれ)は、如来応供正遍知者等も(かつて)ご覧になられたこともなく、[いまご覧になられているということでもなく]、(将来)ご覧になられるであろうこともなく、(それ自心は)青いものnīlaでなく、黄色のものpītaではく、後略)

 

色(いろ・かたち。色処)は顕色、形色、そして表色の三種とされ、表色は(内なる心を外に表して)取・捨・屈・申・行・住・坐・臥等の動きをいいます。『声字実相義』には「「心[は]非男・非女」と云うは、亦た心[は]、表色に非ずと遮す。是れ亦た顕・形色に通ず。」とあります。

 

『大日経疏』巻第一より
(588b07前約一切法明心實相已。今復約眞我明心(b08實相。此宗6辨義。即以心爲如來應正等覺。(b09所謂内心之大我也。如有一類外道。不了自(b10心故而作是言。我觀眞我其色正青。餘人所(b11不能見。或言正黄正赤。或言鮮白。或言如燕(b12脂色。今義云紅紫也。或言我見眞我。其相極(b13長極短。乃至如男子相等。唯此是實餘皆妄(b14語。然此等衆相。悉從縁生無有自性。云何得(b15名眞實7我耶。對如是種種執故。佛説如來應(b16正等覺非青色等。所以者何。是青相畢竟不(b17生故。則爲非青。青實相不壞故。而亦非非青。(b18當知如來應正等覺。無一定相可説。亦不離(b19)如是諸相也。

 

前には、(内外の十二処をもって)一切の法に約して、心の實相を明かし已んぬ。今、復た真我(ātama<ātaman)に約して(=「我」という概念を用いて)心の実相を明かす。此の宗に弁ずる義は、即ち心を以て如來應正等覺とす。謂わゆる、内心の大我なり。

「内心の大我」の「大我」の用例のひとつとして、次のものがあります。

『大日経疏』巻第五「大我とは、謂 諸の如來の八自在の我を成就して、(627b12)法に自在なる者(すなわち、如來應正等覺)と、及び諸の摩訶薩埵(Samantabhadra等の大菩薩mahāsattvaのこと。金剛頂経における概念です)とをいう。」

 

八自在(八大自在我 《三藏法數》―出《涅槃經》参照)とは、能示一身以為多身、示一塵身満大千界、大身軽挙遠到、現無量類常居一土、諸根互用(一根をもって能く色受等を縁ず)、得一切法如無法想(一切の法を得て[も、心に得想なく、]無法想の如し)、說一偈義経無量劫、身遍諸処猶如虛空(身、諸処に遍じ、なおし虚空の如し)をいいます。

 

有る一類外道の如きは、自心を了せざるが故に、而も是の言を作す。我れ眞我を観るに、その色は正(まさ)しく青し、餘人は見ること能わざる所なり、と。或が言く、正しく黄なり、正しく赤なり、と。或が言く、鮮白なり、と。或が言く燕脂色の如し、と。今は義をもって「紅紫」という。或が言く、我れ眞我を見るに、その相極めて長く、極めてし、乃至、男子の相等の如し。唯し、此れ(のみ)是れ實なり、餘は皆な妄語なり、と。然れども、此れ等の衆相は、悉く縁より生じて自性あることなし(縁起生にして無自性。したがって有為法である)。云何んが、眞實の我と名づくるを得んや。是の如くの種種の執に対するが故に、佛は、如來應正等覺(のごとき自心)は、青色等に非ずとす。

 

一類外道、すなわち仏教徒以外のある種の者たちの主張を想定して、経文は綴らえれている、ということです。

 

所以は何かんとなれば、是れ青の相(nīla-ākāra形象)は畢竟じて不生なるが故に、則ち青に非ずとす。青の実相(真実のありかた)は不壊なるが故に、而も亦た非青に非ず(すなわち“青である”の意)。當に知るべし、如來應正等覺(のごとき自心)は一定の相(lakṣaṇa)として説くべきことなく、亦た是の如くの諸相を離れず。

 

この一文を、詳しくそして正しく説明することは難しいです。でも結論部分は明瞭です。「一定の相として説くべきことなく、亦た是の如くの諸相を離れず一定の相として説くべきことなく、亦た是の如くの諸相を離れず」、すなわち「無相」ということです。