『大日経』住心品より
心[は]内に在らず、外に在らず、及び両中間(りょうちゅうげん)にも、心[は]不可得なり(mi dmigs so // *na upalabhyate)。
心は、(身内)内に在るのか、(身外)外に在るのか、それともその中間に在るのか、いずれにおいても、その存在は「認識され得ない」(不可得)ことを述べる一節です。
『大日経疏』巻第一
如摩(588a24)訶般若。以無量門入諸法實相。今欲擧其宗(a25)要。但觀内外十二處。即攝一切法也。行者心(a26)無始來。多於内法取著心相故。先於内六處。(a27)以即離相等方便。一一諦觀心不可得無生(a28)無相無有處所。而作是念。此心或在外耶。復(a29)於外六處如實觀之。心亦無生相無有處所。(b01)猶恐錯誤更合觀之。於兩中間亦不可得。即(b02)悟此心實性。本自無生無滅。畢竟 常 淨戲論(b03)雲披。譬如珠力故水清。水清故珠現。定不從(b04)餘處來也。
『摩訶般若』(「初分難信解品」第三十四)の如きは、無量の門(すなわち、五蘊、六根、六塵、六識、六触、六緣所生等の等の八十一科の法門)を以て諸法の実相に入る(諸法の真実のありかたを知る)。(しかし)今、その宗要を挙げんと欲(ほっ)して、但し、内・外の十二処を観ずるに(= 観察すれば)即ち一切の法を(残りなく)摂す(ることができる)。
十二処は、認識感官であり、認識の機能(識)である眼・耳・鼻・舌・身・意の六根(内の六処)と、その対象となる色・声・香・味・触・法の六境(外の六処)をいいます。それらが心と心の働き(心・心所)が生じて展開する処(認識の場)という意味で「処」(āyatana)といいます。それらがそれぞれに接触することが、心と心の働きが生じて展開するさま・状態であり、そこには、認識する主体・実体の必要性は認められない、とします。
行者の心[は](『義釈』「行者[は]」)無始より來(このか)た、多(おお)く、内法に於いて心相に(/心相を)取著するが故に、先ず内の六処に於いて即・離・相(『義釈』「即・離・相在」)等の方便を以て一一[に]諦観するに、心[は]不可得なり。無生・無相にして処所あることなし。
この一文の前半は読みづらくありますが、『般若心経』「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色 受想行識亦復如是」を援用して「即・離・相在」を説明すれば、(離)「眼は心に異ならず、心は眼に異ならず」に非ず、(即)「眼はすなわちこれ心、心はこれすなわち眼」に非ず。耳・鼻・舌・身・意もまたまたかくのごとし、心は、内の六処と離(異)の関係にも、即の関係にも、そしてその双方であるとの関係にも非ず、となります。心[は]内の六処にいずれにおいても不可得であり、心は無生・無相であり、処所あることなし、すなわち拠り所(所依āśraya)をもたない、ということです。
而も是の念を作す、此の心[は]或いは外に在りや、復た外(げ)の六処に於いて実の如く之を観ずるに、心[は]亦た生・相なもくして(/のうして)、処所あることなし。猶おし、錯誤せんことを恐れて、更に合して之を観ずるに、両中間に於いても亦た不可得なり。
内の六処での考察と同じです。
即ち此の心の実性は本自(もとよ)り無生・無滅なりと悟んぬれば、畢竟常浄(= 本来不生・本有常住)にして、戯論の雲披る(/被く)。譬えば、珠力(摩尼珠の威力)の故に水清し、水清きが故に珠(たま)現ず、定んで余処より来らざるが如し。
ここで言及されるたとえは「池水中に摩尼珠の譬例」『宝性論』(高崎直道『宝性論』講談社1989, pp.131-132)として知られるものであり、典拠は『大般涅槃経』大正蔵12,377c-378a(『泥洹経』大正蔵12,862b)求められます。
『大般涅槃経』「譬如春時有諸人(大正No.374.vol.12.378a01)等在大池浴乘船遊戲失琉璃寶沒深水中。(a02)是時諸人悉共入水求覓是寶。競捉瓦石草(a03)木沙礫。各各自謂得琉璃珠歡喜持出乃知(a04)非眞。是時寶珠猶在水中。以珠力故水皆澄(a05)清。於是大衆乃見寶珠。故在水下。猶如仰觀(a06)虚空月形。是時衆中有一智人。以方便力安(a07)徐入水即便得珠。」
いまだ厳密にはいえませんが、「定んで余処より来らざる」は『大日経疏』によるコメントの可能性があります。また「水清きが故に珠現ず」の「水清き」とは、信の必要性をいっているようです。