七回忌法要の仏さま 阿閦如来について
佐藤直実さまの論文「蔵漢訳『阿閦仏国経』に記される触地の様相」『印仏研』第68巻第2号2020を参照して、阿閦如来の基本的情報を入手し、そのうえで、七回忌法要の意義について考えてみます。
まず、1. はじめにに
阿閦(あしゅくAkṣobhya)仏は東方・妙喜(みょうきAbhirati)世界を主宰する他土仏であり、大乗仏教最初期(紀元前後に成立した、通称『阿閦仏国経』)に登場し、西方・極楽世界の主宰仏・阿弥陀仏と対をなす仏である。大乗仏教では四方四仏の東方仏として5世紀には定着し、密教では金剛界五仏の東方に配される。図像においては大乗、密教共に、右手の五指を垂下させる触地印(bhūmisparśamudrā降魔印)で描かれる。この印相は降魔成道時の釈迦を象徴する所作と同じであり、両者連関が予想されるが詳細は明らかにされていない。
とあります。阿閦仏の歴史的な位置付け、大乗仏教における教理的な意味が簡潔に示され、阿閦仏が示す「触地印」は、釈尊成道時のしぐさである「触地印(降魔印)」と共通していることが指摘されています。(なお胎蔵四仏、東方の阿閦仏・不動仏、そして北方の天鼓雷音仏については、ここでは触れないでおきます。)
さて、釈迦如来の触地の印は、魔王・魔軍を退け、成道に至る瞬間を象徴する所作であり、そのしぐさの意味するところについては、
釈迦[如来]の過去世での無数の布施行[により、成道に値する功徳を集積していること]を証明するために地天(Sthāvarā,堅牢地神)を呼び出すという逸話に由来する
とあり、釈迦[如来]の過去の布施行が「真実であること」を証明するため、とあります。法顕『高僧伝』にも、釈尊成道時のようすが語られています。当該論文は次のように引用しています。
「(菩薩起行離樹三十歩。天授吉祥草。菩薩受之。復行十五歩五百青雀飛來繞菩薩三匝而去)菩薩前到貝多樹下。敷吉祥草。東向而坐。時魔王遣三玉女從北來試。魔王自從南來試。菩薩以足指案地。魔兵退散 三女變成老母。」(菩薩は進んで貝多樹の下に到り、ここに吉祥草を敷き、東向きに坐った。その時、魔王は三美女を遣わし、北からきて試させた。魔王自らは南側から来て試した。菩薩が足の指で 地を撫でると魔兵は退散し、三美女は老女に変わった。)
「足の指で地を撫でる」との記述の考察はさておくとして、ここでは地天は登場していません。したがって、その触地の役割も「真実性の証明」ではなく、魔軍に対する威嚇であることが導きだされ、触地には、もうひとつの意味である「不動なる決意」があると解釈されています。
「不動なる決意」というこの解釈が、「金剛宝座」(動くことのない場所)と呼ばれることになる成道の場に坐する釈尊と阿閦仏(あしゅくAkṣobhya)とを結びつけることになったのです。
最後にもうひとつ、阿閦仏のその名称についての基本的情報を当該論文からご紹介しておきます。
「阿閦」とは、サンスクリットのAkṣobhyaに由来する音写語で、「揺れ動かない」を意味する。名前の由来は、阿閦の成道への決意(・誓願)が「揺るぎないもの」(不退転あるもの)であり、怒りや畏れに「心を動かさない」からと考えられ、「不動」あるいは「無怒」と漢訳されることもある。
以上です。
それでは、七回忌法要の意義について考えてみます。三回忌の四年後、ご逝去から六年が経過しての七回忌です。この「六年」を学校制度にたとえると、三回忌となる故人さまは、低学年の新円寂のお方に対しては中学年であり、お浄土の校長先生である阿弥陀さま、教諭であられる観音さまなどの菩薩さま方、多くの先生方のお手伝いができるようなご存在となられると理解します。ですから、七回忌となる故人さまは、小学校を卒業され、“新しい学び”を行うことになるのです。
阿閦如来は、マンダラにあっては東方の「発菩提心」([出発])にあたるお方。ちなみに十三回忌の大日如来はマンダラの中尊です。ですから、その意味での“新しい学び”なのです。
それは、これからも仏さまの教えを学びつづけると同時に、これまで六年間を通して学んだこと、その修行の功徳を、他者であるご遺族さまに廻向することのできるご存在になられる、すなわち自利と利他とを同時に行うという“新しい学び”です。七回忌をむかえる故人さまは、ご家族さまにとっても、お手本とすべきお方となれるのです。
以上は私の勝手な考えです。他にもいろんな解釈、受けとめ方であるでしょうから、少しずつ学んでいきます。