世尊大日の返答
『大日経』住心品より
秘密主、自心に菩提及び一切智を尋求す。何を以ての故に、本性清浄なるが故に。
『大日経疏』巻第一より
雖衆(588a10)生自心實相。即是菩提。有佛無佛常自嚴淨。(a11)然不如實自知。故即是無明。無明2所顛倒取(a12)相故。生愛等諸煩惱。因煩惱故。起種種業入(a13)種種道。獲種種身受種種苦樂。如蠶出絲無(a14)所因。自從已出而自纒裹。受燒煮苦。譬如人(a15)間淨水。隨天鬼之心。或以爲寶或以爲火。自(a16)心自見苦樂。由之當知、離心之外、無有一法(a17)也。若瑜伽行人。正觀三法實相。即是見心實(a18)相。4心實相者。即是無相菩提。亦名一切智(a19)智。雖復離諸因縁。亦非無因而得成就也。復(a20)次世尊欲令衆生如實知自心故。更以方便(a21)分別演説。所以然者。若但言自心不生不滅。(a22)以無所因故義則難解。故先示其著處。
衆生の自心の実相(= 自らの心の本質)は、即ち是れ(無相の)菩提なり(= さとりの状態にある。それは)、有佛[にもあれ]無佛[にもあれ]常に、自(おのずか)ら嚴淨(ごんじょう= 本性清浄)なり(Cf. utpādād vā tathāgatānām anutpādād vā sthitaiveyaṃ dharmatā 諸の如来が出現するしないにかかわらず、この法性・縁起の法は確定している)といえども、然も、(自心の実相を)実の如く自ら知らざるが故に、即ち是れ無明(avidyā. 十二支縁起の第一支)なり。無明、顚倒(てんどう)して相を取る(*viṣayanimittodgraha対象の特徴を捉える、こと)が故に、愛(tṛṣṇā. 十二支縁起の第八支)等の諸の煩悩を生ず。煩悩(= 惑)に因るが故に、種種の業(karma<karman = 善悪の業)を起こして、種種の道(gati六趣/五道に分類される迷いの生存)に入り、種種の身(= 苦諦)を獲(え)、種種の苦・楽(の感受等)を受くること、(中略)自心、自ら(みずから)[自心に]苦・楽を見るが如し。之に由って当(ま)さに知るべし、心を離れて、外(ほか)に一法(bhāvāntara別の存在)も有ることなし。
ここでは、自心の実相(= 自らの心の本質)を、実の如く自ら知らないことを「無明」としています。その無明により、顚倒(てんどう)して相を取り、業善悪の業を起こし、(迷いの生存の中で)苦・楽を感受する、すなわち苦を果(果実、異熟)とする。十二支縁起は、無明、行、識、名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老[病]死をいい、十二支は、惑・業・苦の三つに配分されます。
「心を離れて、外(ほか)に一法(bhāvāntara別の存在)も有ることなし」が、一番目の問いかけに対する返答になります。
若し瑜伽行人(yogin)、正しく三法(惑・業・苦)の実相(すなわち、無自性、無相であること)を観ずるとき、即ち是れ心の実相を見るなり。心の実相とは、即ち是れ無相の菩提なり。亦た一切智智と名づく。
自心の実相と菩提とがともに「無相」であることで結ばれます。これが二番目の問いかけに対する返答になります。
復た諸の因・縁を離れたり(すなわち、不生不滅、本不生である)といえども、亦た因なくし而も成就を得るにあらず。
これが三番目の問いかけに対する返答になります。
復た次に、世尊、衆生をして実の如く自心を知らしめんと欲したもうが故に、更に方便(= 巧み手だて)を以って分別し演説したもう。然る所以は(= どうしてかといえば)、若し但し、自心は不生・不滅なりと言わば、所因(由linga, hetuとするところ)無きを以ての故に、義、則ち解し難し(その意味は理解できない)。故に先ずその著処を示すなり。
「著処」とは、具体的には、以下述べられる経文「心は内に在らず、外に在らす、および両中間にも、心は不可得なり」云々をいいます。実践すべき方法論が示されます。