『大日経』「住心品」より

爾時金剛手復白佛言。世尊誰尋求一切(587c27智。誰爲菩提成正覺者。誰發起彼一切智智。(c28佛言。祕密主自心尋求菩提及一切智。何以(c29故。本性清淨故。乃至無量功徳皆悉成就。

 

その時に金剛手、復た佛に白して言(もう)さく、世尊、誰か一切智を尋求する、誰か菩提の爲めに(= 菩提を求めて)正覺を成ぜる者(もの)、誰か彼の一切智智を發起する[や]。佛の言(のたま)わく。祕密主、自心に菩提及び一切智[と]を尋求す[べし]。何を以ての故に、本性清浄なるが故に。(乃至、[自心において]無量の功徳[は]皆悉く成就す)。

 

漢訳では、問いかけは三つとなっています。(『大日経疏』も三つ)一方、チベット訳では問いは二つ、しかも「誰か」という(不要な)主語をたてず、(仏教教理学的に相応しい、すっきりとした形式での)問いかけとなっています。(それは漢字文化圏における仏教学、あるいは、仏教にさほど馴染みのない者の常識的思考を考慮して訳し方ということなのでしょうか。)必要な部分のみを示しておきます。チベット訳では次のように問いかけられています。

 

Tib. bcom ldan ‘das thams cad mkhyen pa nyid gang nas yongs su btsal bar bgyi / gang gis ni byang chub mngon par rdzogs par ‘tshang rgya bar bgyi / 世尊よ、一切知者性(sarvajñatā)は、何処(いずこ)より(kasmāt)求め、何によって/いかにして(kena)悟られるのでしょうか。

 

世尊の答えとしての「自心に」は同じ。rang gi sems las(svacitte)yongs su btsal bar bya’o // 自心に(チベット語の直訳はで「自心より」)求められるべきである。

 

また( )内は、『大日経疏』に見られる一文です。(不要な)主語をたてず、云々としたのは、石飛道子『ブッダ論理学 五つの難問』講談社選書メチエ2005における難問5を参照。それは「『(誰かが)食べる(ここでは、求める)』という行為主体を主語とする文体をブッダは用いないということです。無我説と抵触するから。それはさておき、『大日経疏』の説明を読んでいきましょう。

 

『大日経疏』巻第一より

時(588a01執金剛1聞佛所説義。薩婆若慧唯是自心。乃(a02至無有少法出此心者。爲未來衆生斷疑惑(a03故。而問佛言。菩提心名爲一向志求一切智(a04智。若一切智智。即是菩提心者。此中誰爲能(a05求誰爲所求。誰爲可覺誰爲覺者。又復離心(a06之外都無一法。誰能發起此心。令至妙果者。(a07若法無有因縁。而得成者。一切衆生。亦應不(a08)假方便自然成佛。

 

時に執金剛、佛(ほとけ)所説の義の、薩婆若の慧(sarvajñajñāna)は唯だし是れ自心なり、乃至、少法として此の心を出でたる者有ることなしと聞いて、未來の衆生に、疑惑を斷ぜしめんが爲の故に、而も(= あえて)佛に問うて言さく、菩提心をば名づけて一向志求(しぐ)一切智智(『菩提心論』「阿耨多羅三藐三菩提を志求して、余果を求めじ」)とす、[同時に]若し一切智智[は]即ち是れ菩提心ならば、此の中に誰をか能求(求める者)とし、誰をか所求(求められるもの)とし、誰をか可覚(覚すべきもの)とし、誰を覚者(覚す者)とせん。

 

まず「能・所」という二項対立的な思考でもっての問いかけ、です。

 

又復た心(= 自心)を離れて、[この]外に都(すべ)て(= 何ひとつとして)一法無くば、誰か能く此の心を發起して、妙果に至らしむる者(もの)。

 

これは、同じひろがりをもつ、自心と菩提とが同延(どうえん)であることに対する疑問であると理解します。二つめの問いかけです。

 

若し法、因縁有ることなくして而も成ずることを得(う)といえば、一切衆生、亦た方便を假(か)らずして(= 必要な手立て用いなくても)自然に(= 法爾のままに)成佛すべし。

 

三つめの問いかけは、いわゆる「修行不要論」です。道元禅師もこのような疑問をもって、中国に渡られたと聞いています。

 

金剛手による、私たち、未来の衆生の疑問を考慮しての(適切な)問いかけに対する、世尊大日の答え「自心に菩提及び一切智[と]を尋求す[べし]」についての解説は次回となります。