『大日経』住心品第一より

祕密主、諸法は無相(*nir-nimitta)なり、謂わく、虚空[の]相(*ākāśa-lakṣaṇa)なり。

Tib. gsangs ba pa’i bdag po chos thams cad kyang mtshan nyid med pa ‘di lta ste / nam mkha’i mtshan nyid do // Ochi, p.9.

  

『大日経疏』巻第一 

以如是(587c21淨菩提心。出過諸觀離衆相故。於一切法得(c22無罣礙。譬如虚空之相亦無相故。萬像皆悉(c23依空。空無所依。如是萬法皆依淨心。淨心適(c24無所依。即此諸法。亦復如菩提相。所謂淨虚(c25)空相。

 

是の如く、浄菩提心(≒ 仏の智慧『大智度論』)は、諸観を出過して(= 諸法の常相、無常相等[一切]を観ぜず『同』)衆相を離れたる(= 清浄にして、無量なること、虚空の如し『同』)を以ての故に、[浄菩提心は]一切の法に於いて罣礙(āvaraṇa)無きことを得る。

 

「浄菩提心」の用例として次のものがあります。「住心品」第一より「秘密主、此の菩薩の浄菩提心[の]門(= 門戸)を初法明道(*dharmālokaprathamanaya法(教法、仏智)の光明[に照らされる]第一[段階]の実践)と名づく。菩薩、此に住して修学すれば、久しく勤苦せずして、便ち除一切蓋障三昧を得と。」

「浄菩提心」は菩提心であっても、仏の智慧に進み入るに「確かな」スタート、基盤となる心、「白浄信心」をいいます。

 

譬えば、虚空の相は亦た無相なるが故に、万像皆な悉く空(= 虚空)に依れども、空(= 虚空)は所依無きが如く、是の如く万法(= 一切の法)皆、浄心(浄菩提心)に依れども、浄心(浄菩提心)も適(まさ)に[無相なるが故に]所依なし。

 

あらゆるものはAに依る(基盤として現象している)が、A自身は「無所依」である。それは、Aが一切の法に於いて罣礙(āvaraṇa)無きことを意味します。(それは、衆相を離れたる「無相」に同じ。)そのAに代入されるのが、虚空であり、浄心(浄菩提心)、菩提(= 阿耨多羅三藐三菩提)であり、加えて、諸法(一切法)も、同じ性質を有することが示されます。

 

即ち此の諸法(= 一切の法)も亦復た菩提の相(、すなわち無相)の如し。謂わゆる、虚空の相なり。