昨夜の投稿では、『法華経』七喩のひとつに数えられ、「信解品」第四に説かれる「長者窮子」の譬えに言及する一文「譬如長者家窮子。若自識父時。豈復是客作賤人耶。」に、何ら触れることはいたしませんでした。
それは、その譬えに引きずられることなく、『大日経』、その『経疏』を素直に読むためでした。(逆にいえば、『大日経疏』の理解でもって、長者窮子の譬えを理解する必要があるということです。)
今朝、身を起こす前、蒲団の中で「長者窮子」の譬えについて考え直していました。
すべての生きとし生ける者はさとりを開く者であり、そしてそれが自らのペースでもって、この上なく、正しく完全なさとりに近づいています。でも、その歩みの速度を速め、願わくは瞬時に到達すべく、『大日経』は工夫をします。
まず、「一切智人(= 一切知者 sarvajña)に非ざれば則ち解すること能わじ」とは、その如来の功徳宝所(guṇakośa)の在り処を指し示すためであること。
「愚童凡夫[が]、若し是の法を聞けば、少しき能く信ずること有り。」とは、愚童凡夫の状態にある者は、いまだ十分に自からの心と向き合うことをしないことをいいます。
「識性の二乗(すなわち、声聞乗、縁覚乗の二乗の者)は、自ら観察すと雖も、未だ実の如く知らず。」とは、自らの心に正しく向き合ってはいないことを意味します。
そして、「実の如く自ら知るは(= 知ることができるならば)、即ち[そのとき]是れ初発心の時に便ち正覚を成ず。」とは、私たちは、自らの心に正しく、向き合うこと決意したことをいうのです。
このように菩提への歩みを進めるにおいて、その過程で経るであろうところの前段階を二つほど例示し、速やかに、この上なく、正しく完全なさとりへと向かわしめるのが、如実知自心の教示の意図であるというのです。このような理解をもって、「長者窮子」の譬えは解釈されるのです。「長者窮子」の譬えに対する解釈は、たとえであるとしても決して安易にご紹介できうるものでなく、詳しくは、苅谷定彦先生の「「長者窮子喩」の解明 ――『法華経』「信解品」の精読――」『桂林学報』第28号、2017に学び、いずれ自らも考え直してみます。 昨夜の投稿の補いです。