弁才天について、あと二つほど取り上げてみたいテーマがあります。その一つが宇賀神です。宇賀神については、私が独自に何らかの文献を読み、知り得た情報はほとんどなく、研究者によるこれまでの研究成果を、私個人の興味にしたがって、いいかれば、これは重要だなと思うことがらのみを、まとめてみたものにすぎませんこと、あらかじめお伝えしておきます。
手元にある主な参考資料は以下の通りです。
山田雄司「弁才天の性格とその変容 ―宿神の観点から―」『日本史学集録』第17, 1994 筑波大学日本史談話会
鳥谷武史「中世における宇賀弁才天信仰の研究 ―叡山と「江島縁起」―」(学位論文要旨)2017
森 雅秀『仏教の女神たち』春秋社2017
まず、宇賀弁才天の図像的特徴として、義浄訳『金光明最勝王経』に説かれる八臂弁才天像が、中世以降、おおよそ鎌倉時代前期において、宇賀弁才天像へと変化するに及び、その相違・変容したところとして八つが指摘されます。それは、宇賀神の存在、八臂の持物、鳥居、髪型、姿勢、光背、十五童子、同一画面中に描かれる尊格です。ここでは宇賀神について考えてみます。
ここで、もっとも信頼するのは、『塵添壒嚢鈔』という、天文元年(1532年)成立とされた室町時代の辞典です。そこには、つぎのようにあるとのことです。
宇賀神(宇加ノ神)は、伊奘册尊(いざなきのみこと/いざなみのみこと)から生まれた、稲作をはじめ五穀や樹木の成育を司る保食神(ウケモチノカミ)と音通であるため、福神となった、とされている。
宇賀弁才天の頂上の冠の中にいます宇賀神のお姿については、『仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経』に次のようにありました。
頂上に宝冠有り、冠中に白蛇有り、その蛇の面(おもて)[は]、老人の如くにして、眉白し、(中略)身、白蛇の如く、白玉の如し。
『仏説最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠陀羅尼経』の成立年代は寡聞にして未だ不明なのですが、13世紀中ごろに叡山と鎌倉で活躍した山王堂謙忠(さんのうどう・けんちゅう)の手になる『最勝護国宇賀耶頓得如意宝珠王修儀』なる文献があり、その前後、それより少し早いと思われます。『塵添壒嚢鈔』よりも、300年も前のことになります。したがって、宇賀神が「白蛇」「老人」のお姿で表されるのが、保食神(ウケモチノカミ)との習合の前なのか、それとも後なのかが問題となるのですが、いまは保留としなければなりません。ちなみに、豊臣秀吉が念持仏とした三面大黒天はお身体と正面のお顔は大黒天、右顔が毘沙門天、左顔が弁才天(弁財天)となっています。宇賀神と保食神との習合も、さほど古いことではないのかも知れません。したがって問題は、「面(おもて)[は]、老人の如くにして、眉白し、(中略)身、白蛇の如く、白玉の如し」とあるうち、「老人」「蛇」「白」の三つに集中されます。
結論のみを申し上げます。まず「白」についてです。それはおそらく、義浄訳『金光明最勝王経』における、以下の記述に拠るものなのであろうことが指摘することができます。
「面貌は猶し盛満月の如く 多聞を具足し依処となり 弁才勝れて出ずること、高峯の若し」(§7にある記述)
「端正楽観如満月(端正にして、観ることを楽うこと、満月の如し)」(§8にある記述)
満月とは、白く光りを放ちます。その光は「無垢の智光明」(「能放無垢智光明」「能く無垢の智光明を放ち」(§8)でもあるのです。
次いで、「老人」「蛇」についての解明なのですが、水入り(弁才天ですから)とさせていただきます。(本日は午後から病院での診察となりますので。)ただしそれに関しては私の出番はなく、金沢大学教授・森雅秀『仏教の女神たち』にご登場いただきます。