本日、4月21日は正御影供(しょうみえく)といって、弘法大師空海・お大師さまがご入定なされた3月21日(それは、承和二年835年、1190年前となります)から、ひと月遅れの4月21日に、お大師さまの遺徳を偲んで行われる、弘法大師正御影供の法要をいいます。
今上(・仁明天皇)の承和元年をもって、都を去って行きて住す。二年の季春、薪尽き火滅す。行年六十二。ああ哀しいから。南山(・高野山の樹々は)、白に変じ、雲[も]樹[も]悲しみを含む。(『弘法大師御伝』下)
後半部分は、お釈迦さまが涅槃に入られたとき、沙羅双樹の葉が瞬時に白くなってしまったことをふまえての記述です。前半部分の「季春」について、正史の一つ『続日本後紀』巻四には「承和二年丙寅」とあり、「二十一日」であることが分かります。
お大師さまが奥院に生身をとどめているとの入定留身説は11世紀初めにすでに現われていること、加えて、観賢僧正の御廟開扉の逸話とともに語られるようになるのは、約80年後の11世紀後半以降であること、については、武内孝善『「弘法大師」の誕生──大師号下賜と入定留身信仰』(2024-12-27)にてご紹介しておきました。
ここでご紹介させていただいたお写真は、滋賀大津・石山寺御影堂にいらっしゃるお大師さまです。左右には良弁僧正(ろうべんそうじょう)、石山寺第3世座主・淳祐内供さまです。
良弁僧正(689-773)と石山寺創建にまつわる物語を、大本山石山寺HP「石山寺の歴史」から引用しておきます。
天平19年(747)、石山寺は聖武天皇の勅願により、良弁僧正が建てられた寺院と伝えられています。良弁僧正は聖武天皇から、東大寺の大仏建立にあたって黄金が不足しているので、黄金の産出を祈願するようにと命じられました。はじめは吉野の金峯山で祈願していたのですが、蔵王権現の夢告を受けて、この石山の地にたどりつきます。そして岩(筆者:天然記念物の硅灰石)の上に、聖武天皇から預かった聖徳太子の念持仏(筆者:おそらくは、観音さま。後の如意輪さま)を祀って祈願したところ、陸奥国で黄金が発見されました。祈願が達成されたため、念持仏を移動させようとしましたが、岩から離れなかったので(筆者:観音さまがこの場所がとても心地よい、とのこと)、そこに草庵を建てて寺院としたのが石山寺の始まりであると言われています。
淳祐内供さまは、さきにも少し触れましたが、菅原道真のお孫さまにあたるお方。延喜21年(922)10月25日、観賢僧正が醍醐天皇の勅を受けて、弘法大師の 号(おくり名)と紫衣を下賜するために高野山の御廟に参じましたが、淳祐内供さまもご同行され、そのさい、お大師さまのお膝に触れることがあり、その手に芳薫が移り、何時までも消えなかったといいます。
本日は正御影供です。このお写真の前でご宝号をお唱えいたします。
(最後に私ごとですがごめんなさい。私は40歳で灌頂を受けた後に「良海」と名乗っていま現在なのですが、20歳の得度に授かった僧名は「光祐」でした。それ以前は「順仁」と父母からいただきました。お坊さんは節目節目に呼び名を更新することができます。これも僧侶のアドヴァンテージの一つですね。「光祐」の「光」は泰廣師のご自坊「常光院」からいただいております。わたしなどには、もったいない名前なのです。)
いまは新緑の季節。石山寺はとても心地よい季節をむかえています。現在本堂内陣にて「弁才天と水の神仏」内陣特別拝観が開催されています。石山寺さまはわたしにとっても、御恩のある場所なのです。応援いたしております。合掌