二種の信 信解 と 深信
『大日経疏』巻第三より
有大(614b10)信解者。此信解。梵音阿毘目底。謂明見是理(b11)心無疑慮。如鑿井已漸至泥。雖未見水必知(b12)在近。故名信解也。下云深信者。此信。梵音捨(b13)攞駄。是依事依人之信。如聞長者之言。或出(b14)常情之表。但以是人未嘗欺誑故。即便諦受(b15)依行。亦名爲信。(與上文信諸佛菩薩義同。)梵(b16)語本是兩名。唐音無以甄別故。同名言信耳。
「大信解あり」とは。此の信解[を]梵音には阿毘目底adhimukti(是認すること)という。謂わく、明らかに是の理(= 正しい道理、実義)を見て、心に疑慮なし。井を鑿(ほ)るに已に漸く泥に至りぬれば、未だ水を見ずといえども、必ず[水は]近きに在りと知るが如し、故に信解(教えを信じて理解すること)と名づく。下に深信というは、此の信[を]梵音には捨攞駄śraddhā(心の清らかさ/心を清らかにする働き)という。是れ事(じ。根拠あることがら)に依り、[さらに]人(にん。信頼すべき人格)に依る[の]信なり。長者の言を聞き、或は常情の表に出ずれども(すなわち、その人の善良なることは表情にはうかがうことができなくても、の意か)、但し、是の人、未だ嘗て欺誑せざる(いままで嘘偽りをいったことがない)を以っての故に、即ち諦受して依行する(実践に励む)が如きを、亦名づけて信(信を能入となし、慧を能度となす)とす。(中略)梵語は本(も)と是れ両名なり(原語は異なるけれど)。唐音以て甄別(けんべつ)無きが故に、同じく名づけて「信」というのみ。
この注釈文は、経「具縁品」第二に次の一節に対するものです。
復た次に祕密主[よ]、彼の阿闍梨[は]、若し衆生を見るに、法器となるに堪えて、(1)諸垢を遠離し、(2)大信解[と](3)勤勇[と](4)深信[と]有って、(5)常に利他を念ず。(若し弟子にして是くの如き相貌を具せば)
すなわち、真言密教の法器となるに値する「弟子の五徳」(五つのよき性質)を説いた一文です。
信解と深信との意味するところ違い、とくには、その前後関係については慎重に考えるべきではありますが(「甄別無き」とありました)、いまは経文にもある通り、信解・勤勇・深信と、行者の信に深まりが増す、より強固となる、と経文は意図していると受けとめておきます。たとえば『経疏』には次の記述もあります。
『釈論』にいわく、譬えば井を穿(ほ)るに、已に湿泥を見るときは、転(うた)た精勤を加えて必ず水を得んことを望むが如(中略)し、と。故(かるがゆ)に信解に次いで而も勤勇を明す。(614b21-24)
復は次に精進は是れ一切善法の根本なり。(中略)若し勤勇の心なければ、宿殖の業ありといえども、発起する(行動を起こすということ)に由(よし)なし。(中略)是の故に、発行の因縁に由りて、便ち深信を得。(614c1-5)
なお「発行の因縁」は(5)の「常念利他」(慈悲の心)と解することもあるようです。
(614b17)若人聞説如上不思議法界。以宿殖善本。神(b18)情明利故。即能忍受其言。知衆生心中決有(b19)此理。名爲信解。又先世已曾親近善知識故。(b20)於三寶縁深。雖不可比量籌度處。即能懸信。(b21)故曰深信。(中略)以深心故。即(c06)能志求勝法荷負衆生。
若し人、上の如くの不思議法界を説くを聞きて、宿殖の善本を以って神情明利なるが故に、即ち能く其の言を忍受(= 諦受)して、衆生の心中に、決(さだ)めて此の理有りと知るを、名づけて信解とす。又た先世に已に曾て、善知識に親近するが故に、三寶に於いて縁深くして、比量(anumana)籌度すべからざる処なりといえども、即ち能く懸(はる)に信ずるが故に、深信という。(中略)深心(= 心底から生じた菩提心)を以ての故に、即ち能く勝法を志求し、衆生[の救済という任務]を荷負す。
「菩提心は即ち是れ白浄信心の義なり」の「信心」とは、「信解」と「深信」、そして、慈悲の心をもそなえた菩提心と理解できるようです。