キリクという梵字
本日は、三回忌のご法要が三件[も]ありました。いずれのご法要、ご家族さまも印象深く、いまは心に残っているのですが、おそらく、明日になれば忘れてしまうのでしょう。ですから、書きとどめておきたいことはできるだけ書き記すようにしています。ここでは、キリクという梵字についてのお話しです。
三限目、あっ、まちがいました、三件目のご法要のお方のお位牌には、お戒名の上に「キリク」という梵字が刻まれていました。ご家族さまに、これはインドの文字で、キリクと読むのですがご存じですか、とお聞きすると、やはり、ご存じではない。そこで少しお話をしました。
まず、これは何だと思いますか。「マーク」ですか、とのお返事。マークでもいいのですが、「エンブレム」と呼んだ方がかっこいいと思います。「エンブレム」については、「観念または特定の人や物を表すのに使われる図案を指す。具体的にエンブレムは、神性・部族または国家・徳または悪徳といった抽象概念を視覚的な用語で具体化させたもので、対象または対象の対応物である。」(Wikipedia)とあり、ここでは、紋章というほどの意味です。ちょうど法要に参加されていた高校生のお孫さまが制服を着用でしたので、その胸の校章もエンブレムですね、と申しあげました。
では、お位牌にあるこれは、何を表わしたものなのでしょうか。ここでお経本の「諸尊真言」のところを開き、「阿弥陀如来」を表わす文字(種子しゅじ)であることを実際にたしかめていただきました。この文字は、キリクと読み、阿弥陀さまを表わす文字なのです。
では、どんな意味ですか、となります。そこで、キリクに関連する情報がふたつほど、こころに浮かんできます。(それは『理趣釈』の一節と『金剛頂経』の一文です。)
キリクには、二つの意味が込められています。まずは、キリク(hrīḥ)という音声は、心を浄化するという働きがあるということを知っておいてください。(どうか、素直な気持ちで、お受けとめくださいませ。もちろん、ちゃんとした理屈があります。)次に、キリクという文字は、「慚」(ざんhrī)をもって、解釈されます。慚はいいかれば、「謙虚さ」ということです。何か過ったことをしてしまったら直ちに反省する、必要があれば謝罪する。そして繰り返し、過ったことをしないように気を付けておく。ことばの使い方にも気を付ける。謙虚さ、身・口・意の行いに気を付けることで、自分自身の心も、周りのお方の心も、その環境も、浄化されるということなのです。キリクという梵字は阿弥陀さまのご存在を表わし、すべてを浄化するという働きがあり、その根拠として、謙虚さという意味があることをお話ししました。
思い出した二つの記述とは以下の通りです。
『理趣釈』「紇利(キリクhrīḥ)字は四字を具して一[字の]真言を成ず。(四つの文字から成るということ)。賀(ha)字門とは、一切法、因hetu不可得の義なり。ラ(ra)字門とは、一切法離塵の義なり。塵rajasとはいわゆる五塵、また能取所取の二種の執著(vikalpa, 分別)に名づく。伊字門とは、自在īśvara不可得なり。二点は悪字(aḥ)の義なり。悪字をば名づけて涅槃nirvāṇaḥと爲す。諸法の本不生を覚悟するに由るが故に、(1)二種の執著は皆な遠離し、法界清浄を証得す。紇利字は、また慚(hrī)の義という。(2)もし慚愧(さんぎ)を具すれば、一切の不善を爲さず。すなわち一切の無漏の善法を具す。(中略)もし人、この一字の真言を持すれば、能く一切の災禍・疾病を除き、命終して已後、まさに安楽国土に生じて、上品上生を得べし。」
(1)は「浄化する働き」に相当し、(2)「謙虚さ」を意味することを示しています。
『金剛頂経』の一節
sarvatathāgatadharmasamayaṃ nāma sarvatathāgatahṛdayaṃ svahṛdayān niścacāra // hrīḥ // athāsmin viniḥsṛtamātre sarvtathāgatahṛdayebhyaḥ padmākārā anekavarṇarūpaliṇgeryāpathā raśmayo viniḥsṛtya sarvalokadhātuṣu rāgādīni vi[śu]ddhadharmatājñānāni saṃśodhya
([世尊・大日如来は]、一切如来法三昧耶と称する一切如来の心真言を、自らの心中から発生させた。それが飛び出した(、すなわち、音声として発声された)瞬間、一切の如来たちの心中より、さまざまな色・形・威儀をともなった蓮華の形をした光線となり現れ、一切の世間界において、貪欲等[の煩悩]を清浄法性智として浄化して、云々)
ここでは、hrīḥという音声に、貪欲等[の煩悩]を清浄法性智として浄化する働きあることが、経文として示されています。
「慚」と「愧」(apatrāpya)については、以下のように説明されています。
「慚」とは自分自身と法(仏教の教え)に照らして自分がなした過ちを恥じると共に、有徳者や善なるものを尊重することである。「愧」とは世間(法律や慣習などの規範) に照らして自分がなした過ちを恥じると共に、悪行から離れることである。特に、「慚」は自分自身のめざす真実に照らして、折々に自分を見つめ、現状の自分を恥じることにもなるので、「精進」や「不放逸(欲望のままに流されず本来為すべきことを為すこと)」と相俟って、私たちの心のあり様を向上させるものとなる。慚愧は、自分を萎縮させ世間から引き籠らせるようなものではなく、自分を成長させる原動力である。(「生活の中の仏教用語」[303]大谷大学・兵頭一夫教授 仏教学)
