岩崎日出男

善無畏三蔵の在唐中における活動について

― 菩薩戒授与の活動を中心として ―

 

善無畏三蔵(Śubhakarasiṃha 636-735)は、中期インド密教を代表し、同じく『金剛頂経』とともに、両部の一翼を荷う『大日経』(『大毘盧遮那成仏神変加持経』)を翻訳した僧として、真言宗徒にとっては大恩人となります。唐の都・長安に至ったのは80歳をむかえてのこと。高齢の善無畏三蔵を助けたのは、一行禅師(683-727)であり、『大日経』の翻訳に併せて講義・経典解説が行われ、のちに一行禅師がそれを編集して、『大日経疏』20巻ができあるが、といいます。『大日経疏』は、天台(台密)・真言(東密)双方の日本密教の教理に対して多大な役割を果たしているのです。

 

善無畏三蔵の在唐中における活動として、訳経のほか、請雨、禅観の指導、北宗禅との交流、(長安・洛陽の両京における)、そして菩薩戒の授与が指摘されます。同時代の人物には金剛智、不空、恵果等があり、日本の真言宗では「付法の八祖」にあい対する「伝持の八祖」の第五祖として数えられています。また「日本渡来伝説」も語られているほど、「神異の僧」としての一面も有しておられたようです。

 

ここでは、岩崎日出男さまの論文「善無畏三蔵の在唐中における活動について― 菩薩戒授与の活動を中心として ―」1989、『東洋の思想と宗教』6を拝読して、善無畏三蔵の在唐二十年間に亙る活動を簡略に記したものです。岩崎日出男さまの論文は、まず善無畏三蔵の在唐二十年間に亙る活動を手際よく記し、その後、菩薩戒の授与に関する問題を扱ったものです。同「中国密教の祖師たち」『中国密教』シリーズ密教3、春秋社1999も併せて参照しました。

 

善無畏三蔵の在唐二十年間に亙る活動 玄宗・開元(713-741)年間

 

長安時代(9年間)

開元4(716)

5月15日、ナーランダーからガンダーラ地方、西域を通って唐・長安の都に至る。<80歳>。宮中滞在の後、初め興福寺(こうふくじ)南院(なんいん)に入り、後勅有りて西明寺(さいみょうじ。かつて道宣が戒律復興の本拠とした寺)に移り止住する。

開元5(717)

『虚空蔵求聞持法(こくうぞう・ぐもんじほう)』(『虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法』)一巻を、西明寺菩提院で翻訳。(来唐後最初の翻訳)

(敬賢禅師[景賢とも記される北宗禅の僧侶。開元11年8月入寂]と仏法を対論する。)「嵩岳会善寺大徳禅師敬賢和上と共に、仏法を対論し、略、大乗の旨要を叙す。」『無畏三蔵禅要』(『無畏三蔵受戒懺悔文及禅門法要』一巻)

 

(無行将来の梵本を一行禅師と共に長安南郊にある華厳寺に捜求し、未訳の総持妙門の梵本数本を簡得する。)「其の無畏の将する所の梵本は、勅有って並びに内に進めしむ。縁は此れ未だ広く諸経を訳するを得ず時、沙門無行、西のかた天竺に遊び学畢りて東帰するも、北天に廻り至りて、不幸にして卒す。将する所の梵本は勅有って迎還せられ、比、西京の華厳寺に在りて収掌せらる。無畏、沙門一行と与に、彼に於いて数本の梵経を簡得す。」(ここで『大日経』などの未訳の密教経典梵本を入手し、のちに翻訳されることになりました。)

 

洛陽時代(11年間)

開元12(724)

11月4日(長安を出発)、玄宗の洛陽行幸に随い、同月22日洛陽に至る。

大福先寺(聖善寺)に入る。<88歳>

開元13(725)、開元14年(726)

大日経』七巻を大福先寺で翻訳(、一行禅師の筆記。善無畏三蔵将来の第七巻「供養法」の翻訳は翌年のこと)。開元14年には『蘇婆呼童子経』三巻・『蘇悉地経』三巻を大福先寺で翻訳。「遂に沙門一行の為に、大毘盧遮那成仏神変加持経一部七巻を訳す。―中略―又、蘇婆呼童子経一部三巻、蘇悉地羯羅経一部三巻を訳す。」

 

(本院、聖善寺中の住房か、に成仏のための功徳となすために、金銅の霊塔を建立する。)(時には、初学の僧侶のために坐禅観法を指導したり、詔を奉じて請雨を行う。)

 

開元20(732)帰国の願いを上表するも、許されず。

開元23(735)

11月7日(10月7日)入寂。<99歳>「開元23年11月7日、右脇にして足を累ね、禅室に涅槃す。享齢九十九、僧夏八十なり。」

 

いま『大日経疏』を読みすすめていますが、まずは『大日経』の翻訳者・善無畏三蔵に関する基本的情報の紹介でした。