慈猛上人、および鶏足寺について、以下の論文

 

風間弘盛「鎌倉期における真言法流の北関東への伝播 ― 下野国医王寺を事例に ― 」 『豊山学報』第66号、令和5年3月

 

に触れるところがあることを知りました。それは、その前文となる「はじめに」においてです。私にとっては、そのような概説部分が勉強となります。以下、それを書き写しておきます。

 

はじめに

真言法流が東国に流入し始めたのは、平安時代畿内より流人が流されたことにより、伊豆に早くから真言宗が伝わったとされる。現在の熱海市にある伊豆走湯山(現 伊豆山神社)は、鎌倉幕府の創立以前から、関東における真言密教の拠点であり、幕府創立後は源頼朝(1147-1199)によって保護を受けた。(1)

(1)櫛田良洪『真言密教成立過程の研究』1964、p.482

 

関東において真言宗が劇的に展開するきっかけとなったのは、鎌倉幕府の創立である。政治的勢力が関東鎌倉に出現したことは、当時の政治と宗教が不可分であったことを考えれば、真言密教がこれをきっかけに展開するであろうことが当然であった。

 

治承四年(1180)、鶴岡八幡宮寺が源頼朝によって創建されると、多くの名僧が京都より招かれた。現在神社となっている鶴岡八幡宮は、供僧二十五口がおかれた寺院であり、その供僧には東密・台密双方の僧侶が任命され法要を執行していた。(2)

(2) 櫛田良洪『同』p.488、貫達人『鶴岡八幡宮』1996、pp.33-34

 

また醍醐三宝院流成賢流の祖・成賢(1162-1231)は、多くの資に瀉瓶し、さらに多くの法流を生み出す。中でも意教上人頼賢(1196-1273)は、幕府の招きで鎌倉常楽寺の開山となり、その弟子慈猛(1212-1277)は、下野薬師寺を中心に活躍した。さらにその法流は、下野国小俣鶏足寺頼尊(1244-1316)に伝えられ、その法灯は関東各地に栄えた。(3)

(3)小此木輝之『中世寺院と関東』2022、p.333.

(付記)意教上人頼賢『密教大辞典』p.2223、慈猛『同』p.1028、鶏足寺『同』p.434.

 

また同じく頼賢の弟子願行上人憲静(?-1295)は、鎌倉大楽寺の公珍に瀉瓶し、その法灯は武蔵など関東島南部に広まった。また憲静より法を受けた、伊豆妙静上人宥祥の流れは、常陸に伝わり、佐久山方として当地で栄えた。(4)

(4)櫛田良洪『同』p.503、内山純子「常陸における真言宗の展開」(『東国における仏教諸宗派の展開』)1990。「佐々山方と醍醐寺院末の真言宗」(『茨城県史中世編)1986、坂本正仁「中世関東における真言宗教団の展開」(『日本仏教史学』20)1985

 

宥祥は教学面においても知られる。大日経の研究に生涯をささげ、京都からも高い評価を受けた。宥祥の教学を伊豆教学・伊豆の伝という。宥祥の弟子に宥シュン[舜+生]・源暹らがいる。宥シュン[舜+生]は常陸国佐久山浄瑠璃光寺に止住し、宥祥の伊豆流教学を伝えた。宥シュン[舜+生]の資には高野山の学匠宥快がいる。源暹については詳しく分からないが、東寺の学匠頼宝杲宝(1306-1362)に影響をあたえた。

(付記)宥祥『密教大辞典』p.2194、宥快『密教大辞典』p.2192.

大日経講伝における伝授軌則に、伊豆方の伝と高野方の伝がある、と習います。大日経理解にどれほど影響を与えるものであるのか、私はいまだよく理解していません。でも期せずして、宥祥と宥快との歴史的関係などがここで分かってよかったです。

 

関東に広まった法流は他に蓮念(仁寛)の立川流、西大寺流の忍性(1217-1303)などの流れが伝わった。特に鎌倉では多くの真言僧が一時止住したり、長く拠点を構えた。光宝方の光宝(1177-1239)、報恩院流の佐々目流の守海(1207-1266)、随心院流の厳海(1173-1251)・厳恵等、忍辱山の定豪(1152-1238)、金剛王院流の実賢(1176-1249)・静円(1230-1278)などである。(5)

(5)平雅行「鎌倉真言派の展開」『人間文化研究』47,2021、同「定豪とその弟子」『人間文化研究』45, 2020、同「鎌倉中期における鎌倉真言派の僧侶」『待兼山論叢史学編』42、2009、櫛田良洪「関東における東密の展開」『真言密教成立過程の研究』1964。

 

このように関東においても、鎌倉幕府成立以降、多くの真言僧が下るようになり、それらの僧侶や、その法流を受けた僧侶が、関東に拠点を構えて、関東の多くの真言密教寺院の基をなした。

 

以下は、その「おわりに」からの抜粋です。

 

真言密教が北関東に伝来する素地として、その地方における檀越の存在が上げられる。御家人などその地域の有力者[である。]寺院を後援する檀越の宗教的要求に応えるためにも、僧侶としてキャリアを向上させることが必要であった。そのためにも鎌倉で聖教を書写し、学匠について学び、また田舎寺院でも聖教を集積し、それを理解する僧侶が必要とされていた[のである。]

 

いかほどか、皆さまに役立てばと、情報の共有といたします。

関西出身の私にとって、関東、北陸、東北などの寺院について、知りたいことがたくさんあります。