卒塔婆に関する記事を、成田山だより「智光」令和7年4月号に掲載されています。元成田山仏教研究所首席研究所員の松本照敬さまの文章です。
わたしたちも日ごろから、檀家さまにお塔婆についてお話しする機会がしばしばあります。「智光」の記事は毎号とも、内容がとても良くととのい、勉強になります。こんかいの記事は、インドでの起源の説明から筆を起こしてくださっていますので、とても参考になります。全文を掲載できませんので、内容を変えないように短くまとめ、ときには補足説明を簡単に加え、また「である調」を「です、ます調」に表現を変えて、皆さまにもお伝えいたします。
卒塔婆(そとば)
法事や葬儀が行われると、墓地に故人の戒名などを記した細長い板が建てられます。この板は「卒塔婆(stūpaストゥーパ、thūpaの音写)」であり、略して、「塔婆(とうば)」、「塔」(とう)と呼ばれます。
ストゥーパは、インドにおいて、土まんじゅう型に土を盛りあげてつくられた塚(つか。墓)のことです。起源は必ずしも明らかではありませんが、仏教にあっては、ブッダ(Buddha)や聖者(さとりをひらいた者)の記念(ブッダのご生涯、そのお徳を思い起こし、心を新たにすること、の意)の印(シンボル)として、日常の持ち物や遺骨、あるいは髪や歯などを埋め、そこに土を盛りレンガでまわりをかためて建造されました。(おじいちゃんのお骨壺に入れ歯を納めたのですが、そのことの先例と、なるのかしら。)
釈尊の在世中に、すでに塔がつくられたということが『十誦律』(じゅうじゅりつ)の五十六巻に記されている、とのこと。給孤独長者(コーサラ国のシュラバスティーの、アナータピンディカAnāthapiṇḍika給孤独・スダッタSudatta長者)による釈尊の爪塔、髪塔の建立、とあるようです。釈尊がクシナガラで入滅、荼毘にふせられると、残った遺骨は(ある経緯を経て。ここでは省略しました)八つにわけられ、灰塔(火葬の後の灰)と瓶塔(かめ。遺骨の配分に用いられた瓶)を含めて、周囲の国々、十か所に塔が建てられることとなりました。これが、歴史的に確実とされる仏舎利塔の起源です。なお舎利とはブッダの遺骨を意味します。
その後、紀元前268年(釈尊滅後およそ100年、または200年後)マウリヤ王国の帝位についたアショーカ王は、釈尊誕生の地、さとりを開いた地などをはじめ、領内に八万四千の塔を建てた、といいます。(アショーカ石柱と呼ばれる
建造物は北インドの要地や仏教聖地に建てられ、現存例は断片も含め15例とのことです。)
ブッダの遺骨を礼拝するために塔をつくるという儀礼は、南方諸国や中央アジア、中国、朝鮮、日本にも伝わります。大乗仏教の興りは仏塔の信仰と深いかかわりを有している、とのことです。
中国で仏塔がはじめてつくられたのは、三国時代である、とあります。中国独自の楼閣建築の形式の影響をうけ、日本では重層の高層建築物となり、仏の遺骨をおさめるための塔は、五重塔、三重塔として、金堂・講堂とともに寺院建築を形成する大切な建造物とになりました。
塔を建てることは、写経などと同様に、仏法の護持につながり、大きな功徳を積むことであると考えられます。塔は、五輪塔、宝筐印塔と形をとり、故人の追福菩提を願って墓標としてもちいられるようにもなりました。そして今日のように、春秋の彼岸会や夏の盆法会、そして回忌法要に際し、板塔婆が建てられることが一般化したのです。板塔婆の上部にみられる切り込みは、五輪塔の形に由来しているのです。
わたしたちが、お寺を訪れてあおぎ見る五重塔、三重塔も、墓地に建てられる板塔婆も、その淵源をたずねれば、同じ古代インドの土まんじゅう型のストゥーパにたどりつくのです。