五大をもって、一切智智の徳性にたとえる

 

『大日経疏』巻第一

復次執金剛承(585c07佛神力。爲欲發起大悲胎藏祕密方便故。復(c08)説五種譬喩。所謂虚空地水火風也。

 

こんかい読むところは、専門的な仏教用語が多くあり、その一々を説明することはいたしませんが、訓読文に、できるだけ、作者・善無畏三蔵、一行禅師の考えに沿いながら、多少のことば、表現を補い、文意をできるだけ明瞭にしながら読み進めようといたします。

 

復た次に、執金剛[は]、佛の神力(*anubhāva)を承けて、[有情の一切智智平等の心地に]大悲胎藏[マンダラを画作するため]の秘密方便(ここでは、密意を有する救済のための巧みな方法、の意)を発起せん(佛からの教説を導こう)と欲うが爲の故、復た五種の譬喩を説く。謂わゆる、虚空・地(じ)・水・火・風なり。

 

まずは、虚空の譬喩が示されます。説いているのは、執金剛です。

 

『大日経』住心品 

尊[よ]、譬えば虚空界(ākāśadhātu)の、一切の分別を離れて、分別も無く、無分別も無きが如く、是の如く一切智智も一切の分別を離れて、分別も無く、無分別も無し。

 

『大日経疏』

初句云(c09)(「譬如虚空界離一切分別。無分別無無分別。(c10如是一切智智。離一切分別。無分別無無分(c11別」者)如此即是毘婆沙義。虚空無過無徳。今(c12如來智身。離一切過萬徳成就。云何得相喩(c13耶。但取其少分相似。以況大空耳。此中相況(c14有三義。一者虚空畢竟淨故。二者無邊際故。(c15三者無分別故。一切智心性亦如是。故以世(c16)間易解空。譬難解空也。

 

初めの句に(中略)、此の如き(、経文における説示)は即ち是れ毘婆沙(vibhāā, vaibhāikaアビダルマ論師)の義なり。[毘婆沙の義によれば、]虚空は過(とが*doa過失)も無く、徳(とく*gua徳性)も無し。今(、それに対して)、如來の智身(一切智智)は一切の過を離れて、萬徳を成就す。云何んが相喩(、たとえと)することを得るや。但し、其の少分の相似(= 類似)を取って以って大空(= 佛智の意)に況すのみ。此の中の相況に三義有り。一には虚空は畢竟淨(ひっきょうじょう)の故に、二には無邊際(むへんざい)の故に、三には無分別の故なり。一切智心(一切智者sarvajña全知者の心)の性も亦た是の如し。故に世間易解の空を以って難解の空にうるなり。

 

虚空[界]と如来の智身(一切智智)の相違と三つの類似する性質を指摘します。「如来の智身」とは「一切智心」(一切智者の心)と言いかえられているように、一切智智をいうのでしょう。ここでの「身」(*kāya)は「集まり、集積」の意かしら。「畢竟淨」(一切の過を離れる)、「無邊際」(無限[の空間、ひろがり])、「無分別」(分別も無く、無分別も無し)の三つの類似。

 

初云離一切分別。梵(c17云劫跛。次云無分別者。梵云劫跛夜帝。所以(c18重言。是分別之上更生分別義。例如尋伺。略(c19觀時名尋。諦察名伺。又如眼識生時有麁分(c20別。次意識生是細分別。舊譯或云。以劫跛爲(c21妄執。

 

初に「一切の分別を離れて」という[「分別も無く」の分別]は、梵には劫跛(こっぱ。kalpa. vi√klṛp)という。次に[「無分別も無し」の]「無分別」というは、梵には劫跛夜帝(na [vi-]kalpayati)という。重ねて言う所以は、是れ分別の上に更に[細かな]分別を生ずる義なり。例せば、尋・伺(じん・し)の、略觀の時をば尋(vitarka 心の粗大さ)と名づけ、諦察をば伺(vicāra心の微細さ)と名づくるが如く、又た眼識の生ずる時は麁分別(āudārika- = 自性分別)あり、次に意識生ずれば、是れ細分別(sūkṣma- = 自性分別に加え、計度分別、随念分別)あるが如し。旧訳(玄奘以前の漢語訳)に、或は云わく、劫跛(kalpa)を以って「妄執」とす。

 

「分別も無く、無分別も無し」という表現の意図を明かします。キー概念は「粗大さ」、「微細さ」です。

 

喩意云。猶如虚空以無妄執分別故。無(c22分別亦無無分別也。又如虚空離種種顯形(c23色相。無所造作。而能含容萬像。一切草木因(c24之生長。有情事業依之得成。佛智虚空亦復(c25如是。雖離一切相常無分別起作。而無量度(c26)門種種妙業。皆得成辨。故以爲喩也。

 

喩の意の云わく、猶おし、虚空は妄執分別(意味としては、grāhyagrāhaka-vikalpa能所分別。取・捉えられるものと取・捉えるものに二項をもって思考すること)無きを以っての故に、分別もなく、無分別も無きが如し。又、虚空は種種の顯[色(けんじき。いろ)・]形色(ぎょうじき。かたち)の相(ākāra, prakāraありさま)を離れて、造作する所(すなわち、表色も)なしとも、而も能く萬像を含容す[る、空間・広がりである]。一切の草木[は]之に因って生長し、有情の事業[は]之に依って成ずることを得る(、いろ・かたちの移動が可能、ということ)が如く、佛智の虚空(佛智が働くこの虚空、無辺際なる虚空を活動場所として働く佛智)も亦復た是の如し。一切の相(ākāra)を離れて、常に分別・起作無し(無功用。むくゆう。作意、こころを特定のことがらに向け、作動させないこと)と雖も、而も無量の度門(波羅蜜多)、種種の妙業(妙なる佛業buddha-kārya仏事)、皆成辨することを得、故に以って喩とす。

 

空間(虚空)の積極的意味づけがなされています。以上をもって、ひとまず、虚空界をもって一切智智の徳性(の一部)にたとえる、という記述が終わります。