不殺生戒は仏教の基本的な教えのひとつですが、人間という生き物は、他者のいのちを食して身を養うことでしか、生きてゆけないとするのなら、せめてこの私たちの生き方を懺悔しなければなりません。高田好胤『心 第二集』より
ここでは、不殺生戒について考えてみます。仏教は、殺生をどのように考えているかということです。ここでは、例により『望月仏教大辞典』「殺生戒(せっしょうかい)」の項目pp.2931-2933の内容を、佐々木閑『「律」の学ぶ生き方の智慧』新潮選書2011、佐々木閑・宮崎哲弥『ごまかさない仏教』新潮選書2017などを参照しながら、ご紹介します。
まず不殺生戒は、四波羅夷(し・はらい)、十重禁(じゅう・じゅうきん)、五戒、八斎戒(はっさいかい)、十善業道(十善戒)、具足戒(ぐそくかい)の、すべてにわたって数えられています。すなわち、いずれの戒律にも等しく制定される、ということです。また「断人命学処」(義浄訳『根本説一切有部毘奈耶 』など)とも称される、とあります。
『四分律比丘戒本』には、次のようにあります。「若(も)し比丘(びく)、故(ことさ)らに自ら手にて人命を断じ、刀を持て人に与え、死の快なるを歎譽して死を勧め、『咄男子、この悪活を用うることを為さんや、むしろ死して生きざれ』と。是の如き心の思惟を作し、種々に方便して死の快なることを歎譽し死を勧めば、是の比丘は波羅夷(はらい)にして不共住(すなわち、僧団からの永久追放になり、僧侶の身分を失う)なり」(T.No.1429.vol.22,1015c13-16. 四波羅夷の第三項目)と。
佐々木氏は、次のように記述します。「(人を故意に(、詳しくは、過失あるいは心神喪失状態ではなく、「殺そう」と思って意図的に)殺した者は波羅夷罪とする。自分で直接殺しても、他の人を使って殺させても、あるいは『死ねば幸せになれるよ』などと嘘を言って死ぬことを勧め、その結果として死に至らしめても(すなわち、間接的な殺人教唆であっても)、すべて波羅夷罪である。」[2011:67, 76]
そして、「僧侶は(どんな状況にあっても)人の死刑を決定したり、戦争で出兵したり、安楽死に手を貸したりすることは絶対にできない」、「仏教は関わることはできない。」[2011:77-78]と指摘します。
『梵網経』巻下には「佛の言(のたま)はく、佛子、若(なんじ/もし)自ら殺し、人に教へて殺さしめ、方便して殺し、殺を讃歎し、作すを見て隨喜し、乃至、呪して殺さば、殺の因・殺の縁・殺の法・殺の業あらん。乃至、一切の有命の者は、故らに殺すことを得ざれ。これ菩薩は、まさに常住の慈悲心・孝順心を起こし、方便して一切衆生を救護すべし。しかも(/しかるに)恣心、快意に殺生せば、これ菩薩の波羅夷罪なり。」(波羅夷罪の第一項目)とあります。
【制戒の由来】釈尊が定められる、僧団の律(vinaya原意は「正しく導くもの」「指導」。「僧団を正しく導いていく規則」)は、「随犯随制/随犯随結」といいます。なんらかの不都合なできごとがあって、はじめて制定されるということです。
不殺生戒が定められた由来とは、次のようなことです。「仏、かつて毘舎離に在りて不浄観を説くに、諸比丘はその身命を厭患し、婆裘河邊の園中に於いて勿力伽難提をしてその命を断ぜしめたるにより、仏はその過を呵して人命を断ずるを制し、之を犯ずる者はすなわち波羅夷罪なり」と宣示されたと(『四分律』第二、『五分律』第二等)。
【制戒の時期】仏成道[後]十二年中[は]諸弟子に未だ過失なかりしことを伝えるもの(『有部毘奈耶』第一、『大智度論』第四十等)、あるいは「二十年中[は]未だ諸弟子の為に戒を結せず」というもの(『善見律毘婆沙』第六)、あるいは、成道第六年とするもの(『摩訶僧祇律』第四)など、があるとのことです。これは不殺生戒のみでなく、戒律全般のことをいうのでしょうか。
【殺生は性罪(しょうざい)】『四分律』などの四波羅夷とは「婬、盗、殺、妄」であり、不殺生を第三番目とするに対して、五戒、八斎戒、十善戒、十波羅提木叉等では、第一位に列しています。その理由について、『大智度論』には次のように説かれています。
『大智度論』第十三(T.No.1509.vol.25.155b27-)「佛は十不善道を説く中、殺罪は最も初に在り。五戒の中にも亦最も初に在り。若し人種種に諸の福徳を修するも、而も不殺生戒(を遵守すること)なくば則ち、所益なし。(中略)諸の餘罪の中に殺罪最も重く、諸の功徳の中に不殺第一なり。世間の中に命を惜むを第一と爲す。」、『同』第四十六「婬欲は(他の)衆生を悩さずと雖も、(自らの)心繋縛するが故に大罪と爲す、是を以ての故に戒律の中には婬欲を初と爲す。白衣の不殺生の前に在る(すなわち、在家者の戒として、不殺生の戒を一番目に定めるの)は、福徳を求むるが為の故なり」と。さらに智顗『菩薩戒経義疏』巻下には「殺戒は十重の始なり。声聞の(すなわち、出家者の律において)非梵行(= 不婬)の初に在るがごときは、人多く過を起こすが故に、地繋の煩悩重きが故に之を制す。殺は性罪なりといえども、出家の人はこの罪を起こすこと希に、また防断すること易し。婬は既に起こし易ければ、之を制すること当に初なるべし。(中略)婬欲は性罪に非ず。殺はこれ性罪なれば、大乗に之を制すること当に初なるべし」。加えて「菩薩は大悲を以て本となすが故に、大乗戒には殺戒を先に制す」(法蔵『梵網経菩薩戒本疏』第一)とする理解もあります。
【戒の犯相】何ももって殺生戒とするのか、その条件が規定されています。『倶舎論』第十六には、「要(かならず)らず先(ま)ず殺さんと欲するの思惟を発し、他の有情に於いて他の有情の想あり。殺の加行(けぎょう。実際の行い)を作し、誤らずして殺すに由る」。(『大智度論』第十三、『菩薩戒義疏』巻下、『四分律行事鈔』巻中之一等も同じ)とあります。その他、『摩訶僧祇律』第四「五事の具足」、『成実論』第八十不善道品「四の因縁」等(『瑜伽師地論』第五十九、『大乗阿毘達磨雑集論』第七)などがありますが、ほぼ『倶舎論』の説明と同じようです。
【殺の方便】実際にどのような方法を用いて殺生をすれば罪となるのかが規定されています。『四分律』第二には二十種、『五分律』第二に三十一種、『十誦律』第二、『摩訶僧祇律』第四、『善見律毘婆沙』第十一など。すなわち、一に、自ら(手を下し)殺し、二に、(他者を)教えて殺さしめ、三に、使を遣して殺し、などと数えています。
【所殺の衆生の差別・簡別】人命を断ずれば波羅夷であり、畜生(動物)を殺すを波逸提(はいつだい。P. pācittiya, Skt. prāyaścittika)とするとあります。波逸提は、2-3人の衆、あるいは長老の前で告白することで罪が成立し、受理されることで僧権が復活する、といいます。動物のいのちの軽視している、といわれても仕方ありません。また五逆罪という表現があり、それは、殺母(母を殺す)、殺父(父を殺す)、殺阿羅漢(聖者・師僧を殺す)、出仏身血(仏のからだを傷つける)、破和合僧(教団を分裂させて乱す)であり、それは「五無間業(ごむけんごう)」とも呼ばれ、それを犯せば、無間地獄に堕ちる、しかも「無間に」、すなわちそれを犯したその瞬間に、と私たちは習います。
【利益殺生・一殺多生の説】特殊なる開制として、殺人が容認される場合があるということが、大乗仏教文献には説かれます。『瑜伽師地論』第四十一(T.No.1579.vol.30.517b9-17)「如し菩薩、劫盜賊の、財を貪らんが爲の故に多生を殺さんと欲し、或は復た大徳の聲聞・獨覺・菩薩を害せんと欲し、或は復た多くの無間業を造らんと欲するを見ば、是の事を見已りて發心思惟すべし。我れ若し彼の惡衆生の命を斷ぜば、那落迦(naraka地獄)に墮せん。如し其れ斷ぜずば、無間業成じて當に大苦を受くべし。我れ寧ろ彼を殺して那落迦に墮するとも、終に其をして無間の苦を受けしめじと。是の如く菩薩意樂思惟し、彼の衆生に於いて或は善心を以て、或は無記心もて、此の事を知り已り、當來の爲の故に深く慚愧を生じ、憐愍の心を以て而も彼の命を斷ず。是の因縁に由りて、菩薩戒に於いて違犯する所なく、多くの功徳を生ず」、とあります。それについて、佐々木氏は「それは、サンガを統制するための律の権威よりも、教義の方が優先されるようになったからでしょう」[2017:270]とコメントされています。
最後に殺生の果報が示されています。
【殺生の報い】『大毘婆沙論』第百十三に、殺生罪に三果ありとし、地獄等に堕するは異熟果(、すなわち悪因苦果)、(地獄等より没し)人中に生じて[は]多病・短命なるは等流果(同類因・遍行因の果、すなわち同等の性質の果)、外物の堅住せざる(殺生の行いの結果が身の周りのすべてに及ぶ、ということ)は増上果(能作因に対応する果)なり、という(Cf.『旧華厳経』(仏駄跋陀羅訳)第二十四)。『大智度論』第十三には、殺生の十罪を挙げるが、そのうち、「五つには睡時に心怖れ、覚むるも亦安からず、六には常に悪夢あり、七には命終の時に狂怖して悪死」す、とあります。殺生の報いは、ひろく現当(げんとう。現在・未来に二世)にわたり苦報をもたらす、ということなのです。
『望月仏教大辞典』における「殺生戒」の項目の内容は、以上のようですが、この記述を通して、私たちは殺生、殺人・それ以外の動物の殺害をしなくなるでしょうか。人を殺したいと考えるほど憎しみをもつ人の心をどうすれば和らげることができるでしょうか(その人を殺害しても自らは救われないことを説き聞かせる、のもそのひとつ)、また自らのいのちを守るために他者を殺すということをしなくなるのでしょうか(そのためには自分も他者も、いずれ必ず、程なくして死ぬということを知ることも大事)。仏教の知識だけでは、十分ではないようです。「なぜ人を殺してはいけないの」という疑問に多くの仏教者がお答えになりましたが、わたしはまだ考え中です。ただ、私たちは生きとし生けるもののいのちを(食事等にさいして、理不尽にも、あるいはむやみに)奪うことがないようにし、紛争という事態に対しては“no more war, only peace”と声をあげて禁止を求めることはできないとしても、決して容認しない(War is over ! if you want it. War is over ! Now)という姿勢を堅持するものなのです。
以上は、不殺生戒についての基本情報のご紹介まででした。
(追記)殺人の動機となるのは、言うまでもなく、怒り(嗔恚)であり、金銭、異性、名誉などに対する貪り(貪欲)であり、そして事実確認に対する無知(無明)なのです。