身語意無尽荘厳蔵の奮迅示現がさらに具体化されて、執金剛(金剛手)、普賢、蓮華手(観音)菩薩等の顕現となります。まず、その三体の菩薩をセットとしての解説となります。
『大日経』
又(毘盧遮那如来の加持の故に)執金剛、普賢、蓮華手菩薩等の像貌を現じて、普く十方に於いて真言道清浄句の法を宣説したもう。
『大日経疏』巻第一
今略擧三聖者。以爲稱(584a10)首也。執金剛對金剛智慧門。降伏方便。普賢(a11)對如如法身門。寂災方便。觀音對蓮華三昧(a12)門。増益方便。擧此三點。則無量不思議妙用。(a13)皆已攝在其中。故特言之。所云等者。乃至諸(a14)天八部五通神仙。以外現漫荼羅之所表示。(a15)例可知1也。如是等種種因縁無數方便。普門(a16)應現教化群生。雖深淺不同麁細有異。然究(a17)其實事。無非祕密加持。各能開示如來清淨(a18)知見。若離如是實相印。餘皆愛見2所生。與(a19)天魔外道作諸營侶。豈得名爲清淨句義耶。
今略して三聖者を挙げて以って称首とす。執金剛は金剛・智慧門に対す、降伏の方便なり。普賢は如如・法身門に対す、寂災の方便なり。観音は蓮華・三昧門に対す、増益の方便なり。此の三点(いわゆる涅槃nirvāṇaの三徳・イ字[梵字]の三点、法身、般若、解脱)を挙ぐれば、則ち無量不思議の妙用、皆已に其の中に摂在す。故に特(こと)に之をいう。云う所の「等」とは、乃至、諸天、八部、五通の神仙なり。外現の漫荼羅の表示する所(いわゆる、図絵されるマンダラ)を以って、例して知んぬべし。是の如く等の種種の因縁、無数[の]方便[をもって]、普門(ここでは、普く、というほどの意)応現して群生(生きとし生けるもの、すべての有情)を教化す。[その教えの]深浅不同にして、[その姿の]麁細異なること有りと雖も、然もその実事(真実の意図、その本質)を究むれば、(本地身・毘盧遮那の)秘密加持[による顕現]に非ざることなし。各々、能く如来の清浄知見を開示す。若し是の如くの実相印(= 実事)を離ぬれば、余は皆な愛見所生なり。天魔外道の与(ため)に諸の営侶(えいりょ。仲間)と作る。豈に名づけて清浄句義とすることを得んや。
三体の菩薩に対する、三部・三門、三種法の配当は次の通りです。この三体で、毘盧遮那の「無量不思議の妙用」がひとまず総合されます。
執金剛菩薩 金剛[部]・智慧門、降伏(ごうぶく。調伏)法
普賢菩薩 (仏部)・法身門、寂災(息災 そくさい)法
蓮華手菩薩 蓮華[部]・三昧門、増益(そうやく)法
マンダラを分類して、自性(rang bzhin)、等至(ting nge ‘dzin)、形像(gzugs brnyan)の三種とすることがあり、そのうち「形像」が「描かれるマンダラlekhyamaṇḍala」(図絵のマンダラ)であり、「等至」(あるいは「自性」を含めて)は「観想上のマンダラbhāvyamaṇḍala」に相当する。
なお「如来の清浄知見」という表現は『法華経』「方便品」第二の「仏知見」を念頭においているようです。「舍利弗、云何なるをか諸佛世(T262.9.7a23)尊は、唯だ一大事の因縁を以っての故に世に出現したもうと名づくる。諸佛世尊は、衆生をして佛知見を開かしめ、清浄なることを得しめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生に佛知見を示さんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして佛知見を悟らしめんと欲するが故に、世に出現したもう。衆生をして佛知見の道に入らしめと欲するが故に、世に出現したもう。舍利弗、是れを諸佛は一大事の因縁を以っての故に、世に出現したもうと為づく。」
次に「真言道清浄句の法」について解説があります。
(584a20)次又釋言所謂清淨句者。即是頓覺成佛神(a21)通乘也。(中略)今此眞言門菩薩。若能不虧法(a24)則方便修行。乃至於此生中逮見無盡莊嚴(a25)加持境界。非但現前而已。若欲超昇佛地即(a26)同大日如來。亦可致也。
次に又、釈して言わく、謂わゆる「清浄句」とは、即ち是れ頓覚成佛[の]神通乗なり。(中略)今、此の真言門の菩薩は、若し能く法則(「真言法要」vidhi儀軌)を虧(か)かずして方便修行するときは、乃至、此の生の中に於いて無尽荘厳加持の境界を逮見す。但し現前するのみに非ず。若し佛地(= 第十地)に超昇(ちょうしょう)して、即ち大日如来に同ぜんと欲(おも)わば、亦た致(いた)しぬべし。
「逮見」(たいけん)はここでは「現前」(げんぜん)と言いかえられ、やっと「得見現前(諸仏)」という意味であることが分かります。
「大日如来に同ぜん」という表現はとても重要です。なぜなら、たとえば「大日如来に同ぜん」といえても、「阿弥陀仏に同ぜん」とは、決して言えないからです。「観音に同ぜん」といえるのは、「大日如来に同じて後に」であるからです。私たちが成仏するとき、必ず「大日如来に同」ずるという体験を経るのですから。これが真言門を行ずる菩薩にとっての「真言道清浄句」の法門なのです。
もう少しで『大日経』の序分が終わります。合掌