詩人・伊藤比呂美さんによる「観音経偈」の現代語訳をご紹介します。
「観音経偈」を むつかしい漢文の訓読を通して読み、理解を深めた わたしたちには、とってもよくわかる、そしてとっても すてきな翻訳として 深く味わうことできるのではないでしょうか。伊藤比呂美『読み解き「般若心経」』朝日出版社2010からの抜粋です。
「観音経偈」
そのとき、尽きぬ心を持つ修行者が、ききました。
「もっとも とうとい おかたよ。
あなたのお顔には
人々を救おうという思いが あふれていらっしゃる。
わたしはもう一度うかがいたい。
どういうわけで、この修行者は
「世の音を観る」という名を持つのですか」
人々を救おうと決意された とうとい かたは
尽きぬ心を持つ修行者に、こうお答えになったのであります。
「あなたよ、よくおききなさい。
かんのん の 実践してきた修行とは、
救いをもとめるどんな声も のがさずに
受けとめるというものなのだ。
人々を救いたいというその誓いは、
海のようにひろくて おおきい。
かぞえきれないくらいの長いとしつき、
何人もの めざめた人たちのもとで
かんのん は、この誓いを実践してきたのだ。
あなたに、ここでかんたんに教えてあげよう。
かんのん の、その名を聞き
その身を見て、心に念じれば
できないことはなんにもない。
どんな苦だってちゃんと消し去る。
たとえ、あなたを殺そうとする人によって
燃えさかる火の穴につき落とされようとも
あのかんのんの力を念じれば
火の穴は水を湛える池にかわる。
あるいは大洋に漂流して
龍や大きな魚に襲われようとも
あのかんのんの力を念じれば
なみに呑まれてしまうことはない。
あるいは世界の中心にそびえる山から
まっさかさまに つき落とされようとも
あのかんのんの力を念じれば
太陽のように空中にとどまっていられる。
あるいは悪人に追われて
岩だらけの崖下にころがり落ちようとも
あのかんのんの力を念じれば
ひとすじの毛も傷ついたりはしない。
あるいは賊に とりかこまれて
あわや と いうときにも
あのかんのんの力を念じれば
賊は たちまち情け心をおこす。
あるいは悪政の王にとらえられ
死罪に処せられるようとするときにも
あのかんのんの力を念じれば
振り下ろされた刀は ぼきぼきに折れてしまう。
あるいは鎖につながれて
手枷足枷に くくりつけられようとも
あのかんのんの力を念じれば
縄目はとけて ゆうゆうと にげだすことができる。
あるいは呪いや毒薬で
あなたを傷つけようとする者がいても
あのかんのんの力を念じれば
呪いや毒薬もその本人にかえっていくのだ。
あるいはよこしまな神々に
悪霊や妖怪に襲われようとも
あのかんのんの力を念じれば
毛穴ほども害されることはない。
あるいは けだものが あなたをとりかこみ
牙や爪をむき出して襲いかかってこようとも
あのかんのんの力を念じれば
たちまち遠くへ走り去っていく。
とかげ や へび や まむし や さそりが
毒を吐き出しながら近づいてこようとも
あのかんのんの力を念じれば
もとのところへ かえっていく。
かみなりに惑い、いなずまに打たれ
ひょうに降られ、大雨に濡れそぼっても
あのかんのんの力を念じれば
雨も嵐もたちまち しずまる。
みなさんの身の上に わざわいが降りかかり
はてしない苦しみに 悩み もだえているときも
あのかんのんの力を念じれば
苦はすっきりと抜けてなくなる。
かんのん は、超能力をもち、よく修行につとめているから
十万の国土のどこにでも
いつなんどきでも
あらわれることができるのだ。
死んだ後の、報いを受けて地獄に堕ちる苦しみも
生きている間の、生老病死の苦しみも
あのかんのんの力を念じれば
たちまちになくなる、楽になる。
かんのん は、真実をみぬく眼をもち、
きよらかな眼をもち、
ひろくて おおきい ちえの眼をもち、
あわれみの眼をもち、いつくしみの眼をもつ。
たよりなさい。
つねに。
うやまいなさい。
いつも。
やがて、きらきらと光がさしこんで、
かんのん の ちえが
太陽のように夜の闇をひらいていく。
災いの風火もしずめていく。
せかいを、あまねく、あかるく、照らす。
あわれみに あふれたその行は
雷のように力強く わたしたちにとどき、
いつくしみに あふれたその心は
大きな雲のように わたしたちをおおう。
やわらかな雨のように わたしたちを濡らし、ゆたかにうるおす。
いさかい、訴訟で、にくみあい
むごい戦いの中で おそれ おびえていようとも
あのかんのんの力を念じれば
おそれも にくしみも、なにもなくなる。
かんのん の 声は、うつくしい。
ふしぎな しらべで ひびきわたる。
かんのん の 声は、てんの声。
海鳴りのように とどろきわたる。
この世に聞こえるどの声も
かんのん の 声には、かなわない。
だからみなさん、
かんのん を念じなさい。
念じて、念じて、ゆめ疑ってはいけません。
かんのん は、きよくて とうとい。
苦しみ、悩み、死や災いに
こんなにたよりになる存在は、ほかにない。
かんのん は、惜しみなく人々を救い、
いつくしみの眼で、人々をみまもる。
かんのん の めぐみは、大海原のように
どこまでも尽きることがない。
だからみなさん、
かんのん を うやまいなさい」
そのとき大地を支える修行者がたちあがり、前にでて、いいました。
「もっとも とうとい かたよ、もし人々がこの章で、
「世の音を観る」修行者なら なんでもできる ということ
どこにでもあらわれる ということを知ったなら、
その人々は、きっと すみきった心を持てるでしょう」
人々を救おうと決意された とうとい かたが
このおしえを とかれたとき、
そこには八万四千人の人々がいましたが、
みな、他に るいのないほどの
すみきった心に たっすることができたのであります。
伊藤比呂美さまも、この観音経偈を現代語に翻訳されているとき、観音さまになっておられたのでしょう。それが「普門」のもつ もうひとつの大切な意味なのです。