「世尊偈」『観音経』を、『仏教漢文入門』伊藤 丈(つかさ)、大蔵出版1995を参照して、訓読を示します。対応するサンスクリット文は、荻原雲来・土田勝弥校訂本(1934-35年)をもって示しています。現在では、『法華経』の梵文校訂は、もっともっと厳密に行われているのですが、参考程度として添えておきます。なお、ところどころ和訳を示していますが、それは辛島静志「法華経の文献学的研究(二)―観音Avalokitasvaraの語義解釈―」『創価大学国際仏教学高等研究所年報』平成10年度第2号1999に拠っています。

 

爾時無盡意菩薩以偈問曰

そのとき、無尽意菩薩は、偈をもって問いて曰く

atha khalu (1Akayamatir bodhisattvo mahāsattvas1) tasyāṃ velāyām imā gāthā abhāṣata //

 

世尊妙相具 我今重問彼 佛子何因縁 名爲觀世音

世尊は妙相(三十二相八十種好[しゅごう/随形好.ずいきょうこう])を具す われ今、重ねて(/重[頌]もて)彼を(= 観世音菩薩について)問う 仏子(=「善男子」)は何の因縁(ゆえ)もて(/因縁にて) 名づけて観世音となすや ※/は「あるいは」の意味として用いる。

2citra-dhvaja Akayomatī etam artha1 paripcchi2 kāraṇāt /

kenā3 jina-putra hetunā ucyate hi Avalokiteśvara //1//

 

具足妙相尊 偈答無盡意 汝聽觀音行 善應諸方所

妙相を具足せる尊は 偈もて無尽意に答う 汝よ、観音の行の 善く諸の方所(あらゆる方向と場所)に応ずるを聴け(/汝よ、観音の行を聴け、善く諸の方所に応ず)

(4atha sādiśatā vilokiyā4) praidhī-sāgaru Akayomati5 /

(6citradhvajo adhyabhaata6) śṛṇu caryām Avalokiteśvare //2//7

 

弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億佛 發大清淨願

弘誓(広大なる誓願)の深きこと海の如し 劫を歴るとも思議しえざらん 多千億の仏に侍えて 大清浄の願を発(おこ)す

(8kalpa-śat’aneka-koy-acitiyā8) bahu-buddhāna sahasra-koibhi /

praidhāna yathā viśodhita9 tatha śṛṇvāhi10 mama pradeśata //3//

 

我爲汝略説 聞名及見身 心念不空過 能滅諸有苦

われ、汝がために略説せん 名を聞きおよび身を見て 心に念じて空しく過さざれば よく諸有の苦を滅せん

śravao atha darśano pi ca anupūrva ca tathā anusmti /

bhavatīha amogha prāinā1 sarva-dukha-bhava-śoka-nāśaka //4//

(観自在の名を)聞くこと、あるいは(彼を)見ることでも、そして次に(彼を)追憶することにより、衆生のあらゆる苦悩と生存の憂いは今世で間違いなく消える。

 

假使興害意 推落大火坑 念彼觀音力 火坑變成池

たとい害する意(こころ)を興して 大なる火の坑(あな)に推(つ)き落とさんも かの観音の力を念ずれば 火の坑は変じて池とならん

saci agni-khadāya pātayed ghatanārthāya2 pradua-mānasa /

smarato Avalokiteśvara abhisikyo (/ambu-sikto) iva agni śāmyati //5//

悪意をもった人が殺害するために(ある人を)火の坑につき落としたとして、(その人が)観自在を念じていると、火は水を懸けられたかのように消える。

※繰り返しあらわれる「念彼観音力」の原語はsmarato Avalokiteśvaraです。ただし、「観音力」の「力」(power)に対応する語はなく、おそらく、漢訳者による補いである可能性があるようです。

 

或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼觀音力 波浪不能沒

あるいは(/もし)巨海に漂流して 龍、魚(「摩竭魚」)、諸鬼の難あらんも かの観音の力を念ずれば 波浪も沒することあたわざらん

saci (3sāgara-durgi3) pātayen nāga-(4makar’asura4)-bhūta-ālaye /

smarato Avalokiteśvara jala-rāje na kadā-ci sīdati //6//

(ある人が)龍、摩竭魚、阿修羅、諸鬼の棲む海の難所に落ちたとして、(その人が)観自在を念じていると、海には決して沈まない。

 

或在須彌峯 爲人所推墮 念彼觀音力 如日虚空住

あるいは須弥(須弥山、妙高山)の峯にありて 人の推き墮とすところとなるも かの観音の力を念ずれば 日のごとくにして(天空の太陽のように)虚空に住せん(住[とど]まらん)

saci Meru-talātu5 pātayed ghatanārthāya6 praduṣṭa-mānasah /

smarato Avalokiteśvaraṃ sūrya-bhūto nabhe7 pratiṣṭhati //7//

 

或被惡人逐 墮落金剛山 念彼觀音力 不能損一毛

あるいは悪人に逐われて 金剛山(鉄囲山)より墮落するも かの観音の力を念ずれば 一毛をも損するあたわず(ほんのわずかたりとも傷つくことはない、の意)

vajrā-maya-(8parvato yadi8) ghatanārthāya hi9 mūrdhni10 oaret /

smarato Avalokiteśvaraṃ roma-kūpa na prabhonti hiṃsitum //8//

 

或値怨賊繞 各執刀加害 念彼觀音力 咸即起慈心

あるいは怨賊の繞みて おのおの刀を執りて害を加うるに値(あ)うも かの観音の力を念ずれば 咸(ことごと)く即(たちま)ち(/即[ただち]に)慈心を起こさん

saci śatru-gaai parīvta śastra-hastair1 vihisa-cetasai /

smarato Avalokiteśvaramaitra-citta tada bhonti tat-kaam //9//

 

或遭王難苦 臨刑欲壽終 念彼觀音力 刀尋段段壞

あるいは王難の苦に遭い 刑に臨みて寿(いのち)終らんとするも かの観音の力を念ずれば 刀は尋(にわか)に段段に壊(お)れん

saci āghatane upasthito vadhya-ghātana2-vaśam-gato bhavet /

smarato Avalokiteśvara khaṇḍa-khaṇḍa tada śastra gacchiyu //10//

(ある人が)処刑者たちの手に落ち、いまにも処刑されようとしているとして、(その人が)観自在を念じていると、そのとき刀はこなごなになるであろう。

 

或囚禁枷鎖 手足被杻械 念彼觀音力 釋然得解脱

あるいは枷鎖(首かせ、体を縛る鎖)に囚禁せられ 手足に杻械(手首、足首にはめる枷[かせ])を被るも(/手足を杻械せらるるも・足は杻械せらるるも) かの観音の力を念ずれば 釈然として解脱するを得ん ※「釈」は。解ける・ほどける、の意。

saci dāru-mayair ayo-mayair hai-nigaair iha baddha bandhanai /

smarato Avalokiteśvara kipram eva vipaanti bandhanā //11//

 

(今夜は、ここまでで終了となります。)