【大日経・同聞衆を明かす】一切の持金剛者、皆悉く集会せり。(中略)其の金剛を名づけて、1)虚空無垢執金剛(しゅうこんごう)、2)虚空遊歩執金剛、3)虚空生執金剛、4)被雑色衣執金剛、5)善行歩執金剛、6)住一切法平等執金剛、7)哀愍無量衆生界執金剛、8)那羅延力執金剛、9)大那羅延力執金剛、10)妙執金剛、11)勝迅執金剛、12)無垢執金剛、13)刃迅執金剛、14)如来甲執金剛、15)如来句生執金剛、16)住無戯論執金剛、17)如来十力生執金剛、18)無垢眼執金剛、19)金剛手祕密主(guhyaka-adhipati-vajrapāṇi)と曰う。是の如きを上首(じょうしゅ)として、十佛刹(じゅうぶっせつ)微塵数(みじんじゅ)等の持金剛衆と倶なりき。(通序・後半部分)
『大日経疏』巻第一より
將説大法。必於大眷屬菩薩衆中令作證(581a20)明。以是因縁聞者生信。由信心故。能入如是(a21)法中。修行得證。倍復生信。故先列衆也。
将に大法を説かんとするに[は]、必ず大眷属の菩薩衆の中に於いて(経の真実なることの)証明を作さしむ。是の因縁を以て、聞く者、信を生ず。信心に由るが故に能く是の如くの法の中に入って(「仏法の大海には、信を能入とす」)、修行し得証して、倍ます復た信を生ず。故に先ず衆を列ぬるなり。
ここで示した『大日経』本文は、「六成就」(聞、信、時、主、処、衆成就)のひとつ、衆成就(しゅうじょうじゅ。眷属成就)と呼ばれる、同聞衆(どうもんじゅ/どうもんしゅう)を明かす前半部分です。「同聞衆」は、説法の会座(えざ)に集い、ともに教法を聞く眷属(けんぞく。従者、仲間たち)をいいます。ここでは、十九種もの執金剛の名が列挙されています。このうち筆頭の虚空無垢執金剛と最後を飾る金剛手祕密主に対する説明はそれぞれ以下の通りです。
虚空(581a22)無垢執金剛者。即是菩提心體。離一切執諍(a23)戲論。如淨虚空無有障翳。無垢無染亦無分(a24)別。如此之心。即是金剛智印。能持此印。名虚(a25)空無垢執金剛也。
虚空無垢執金剛とは、即ち是れ(本有の)菩提心の体なり。(阿字門平等の種子なり。)一切の執諍戯論(prapañca)を離れて、浄虚空の障翳(しょうえい)有ることなく、無垢無染にして亦た分別(vikalpa)無きが如し。此の如くの心は、即ち是れ(如来の)金剛智印(ここでは、無分別智)なり。能く此の印(= 智印)を持するを虚空無垢執金剛と名づく。
西方謂夜叉爲祕密。以其身(582a07)口意。速疾隱祕難可了知故。舊翻或云密迹。(a08)若淺略明義。祕密主。即是夜叉王也。執金剛(a09)杵常侍衞佛。故曰金剛手。然是中深義。言夜(a10)叉者。即是如來身語意密。唯佛與佛乃能知(a11)之。(中略)祕中最祕。所謂心密之主。故曰祕(a13)密主。能持此印。故云執金剛也。
西方には(中国から見て「西方」、すなわち天竺・インドを指す)夜叉(yakṣa)を謂って秘密とす。その身・口・意、速疾隱祕にして了知すべきこと難きを以ての故に、旧翻(くほん)には或いは密迹(みっしゃく)と云う。若し浅略をもって義を明かさば、秘密主(guhyaka-adhipati)といっぱ、即ち是れ夜叉王なり。金剛杵(vajra)を執りて常に佛を侍衛したてまつる。故(かるがゆえ)に、金剛手(vajrapāṇi)と曰う。然も是の中の深義は、夜叉と言っぱ、即ち是れ如来の身語意密(三密の活動)なり。唯し佛と佛とのみ乃(いま)し能く之れを知りたまえり。(中略。秘密神通は)秘中の最秘なり。謂わゆる、心密(「心密」とあるが、身語意の三密のこと)の主なるが故に秘密主と曰う。能く此の印を持す、故に執金剛と云う。
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如是上首十(582a14)佛刹微塵數等持金剛衆倶者。(中略)如來(582a20)差別智印。其數無量。非2算數譬喩之所能(a21)知。且以如來十種智力。各對一佛刹微塵。以(a22)表衆會之數。(中略)然此毘盧遮那内證之徳。以加(a24)持故。從一一智印。各現執金剛身。形色性類。(a25)皆有表象。各隨本縁性欲。引攝衆生。(中略)從此一門(a27)得入法界。即是普入一切法界門也。
如是上首十佛刹微塵数等持金剛衆倶(是の如きを上首として、十佛刹微塵数等の持金剛衆と倶なりき)と者、(中略)如来の差別智印、其の数(かず)無量なり。算数(さんず)譬喩(数をもって数えたり、たとえで示したりすること)の能く知るところに非ず。且らく如来の十種の智力を以って、各おの一佛刹微塵に対して以って衆会の数を表す。(「世界海世界性及び一佛刹の義」中略)然も此の毘盧遮那内証の徳、加持を以ての故に、一一の智印(= 加持された内証の功徳である金剛智印)より、各おの執金剛の身を現ず。形色(ぎょうしき)性類、皆、表象あり。各おの本縁性欲に随って衆生を引摂す。(中略)此の一門より法界に入ることを得つれば、即ち是れ普く一切法界門に入るなり。
十九執金剛、そしてさらに無量の「持金剛衆」の存在を明かします。それぞれが、大日如来の自内証の功徳より加持された一法門をになう執金剛の存在であり、さまざまな境遇にある生きとし生けるものを、その性向・性格、その好むところにしたがって、適切に悟りへと導く働きを行う、というのです。
一門と普門(一切法界門)という用語について、大日如来を普門(ふもん)として余尊を一門(いちもん)と理解します。普門と一門との関係について、山崎先生は次のように説明されています。
一門は普門の何分の一かの部分ではない。一門で徹底して究竟大日如来の境(筆者:「毘盧遮那内証」の境)に達した時、一門即普門といえる。衆生は信仰の上で一門がまだ自我である場合は(すなわち、お不動さま信仰、観音さか信仰が未だ、ということ)、(その人は)単なる個性、すなわち自我的個性Egoistic Personality(にとどまるの)であるが、その自我[の殻]を破り無我となった時、普遍的個性Universal Personalityに、すなわち一門は普門となる。そして一門は普門としての一門となるのである。
以上が、内眷属(ないけんぞく)と呼ばれる諸の執金剛に対する簡潔な説明です。
