お葬儀のおつとめのとき、私たちは、故人さまがお浄土へと迎えられますこと、赴かれますことを願って、作法、読経を行います。では「輪廻転生」を認めているのですか、輪廻転生する「霊魂」というべきものを想定しているのですか、と問われたのなら、ここでは前者の問いに対しては、「輪廻」の考え方は、いまはもう「一般的な常識」であるとはいえませんが、「伝統的な考え方」として受けとめています、とお答えします。(実際には分からないのです。でも)身勝手なもので、地獄には墜ちたくない、まして(物理的には)無い方がいい、その一方、お浄土はあってほしい、亡き両親はお浄土でお過ごしいただいているのだと信じて、毎日手を合わせています。そして後者の問い(「霊魂・魂」)に対しては、ことばを択ぶ必要はありますが、「灯焔が刹那刹那に滅しながら相続して一方から他方に至るように」、すなわち変化しつつ連続する「煩悩と業のなすところの五蘊仮和合」、したがって縁起せる有情の姿のひとつのあり方を意味するのであり、少し積極的な表現をとるならば、過去を記憶し、未来を創造していく何らかのエネルギーという意味で「霊魂・魂」はある(、その本質は惑・業・苦の業であり、すなわち行saskāra、とくには思cetanā)といってもいいのかなと考えています。(少なくとも、私たちは等しく、未来の世界に責任を有しているのです。)

 

ここでは、中有(ちゅうう)について、少し考えてみます。中有は、本有(出生から死までの一生)・死有(死に至る刹那の生)・中有・生有(母胎に託胎する刹那)と数えられる「四有」のひとつであり、次のように説明されます。

 

「死有の後に居り、生有の前に在り、二有の中間に有の自体(じたい)起こる。欲と色との有の摂なり(ただ欲色二界に受生すべき者のみに中有の身を受ける、ということ)。故に中有と名づく」『大毘婆沙論』巻七十、「死・生二有の中の五蘊を中有と名づく。未だ至るべき処に至らざる故に中有は生じたるものに非ず」『倶舎論』「分別世間品」第三・第10偈

 

中有は、中有を含め、意成、求生、食香、中有、起との五種の名を以て呼ばれ、そのうち、「中有antarābhava」とは二趣(死有と生有)の中間の有るところの蘊であること、「意成manomaya」は、意より生ずるものであること、「香食gandharva-kāya」は、香食に資けられて生すべき処に往くこと、をいいます。『倶舎論』巻十

 

なお有情(・衆生)の生存のあり方として「六趣」(地獄・餓鬼・畜生・人・天・修羅)があり、その生まれ方には「四生」(卵生・胎生・湿生・化生)の相違があるといいます。浄土への往生はその「化生」(母胎などのよりどころなしに、自らの過去の業力によって忽然と生まれるもの)であるといいます。まず中有の基本情報を『望月仏教大辞典』よりご紹介します。『望月仏教大辞典』では本巻と補遺の二ヵ所にわたって記載がありますが、ここでは補遺のものです。

 

中有説は、転生輪廻の思想を根幹として成り立っているが、そのきわめて素朴な形は、ピンダ・ウパニシャッド(Piṇḍa-Upaniad)あたりにも現われていて、この身を捨てた霊は「三日の間は水中に住し、三日の間は火中に住し、三日の間は虚空を行き、一日は風に伴いて行く」と説かれている。インド仏教諸派の間では、中有の存在を認めないものもあり、また中有肯定説をとるものの間にも多少その見解に相違はあるが、他の三有に区別される中有のきわだつ性格は、およそ次のように要約される。(1)中有は惑・業・苦に支えられ当生の趣と同一業の所引である。(2)中有身は極細であるから生得眼によっては見られ得ず、ただ中有にある同類者と、および極浄天眼を修得した者とのみ相見る。(3)業通力が強く、虚空を凌ぐこと自在である。(4)中有の用は無対で金剛等もこれを遮すことができない。(5)当生の趣が決定していて、中有已に生ずれば一切種の力もこれを転じ得ない。(6)段食(但し、きわめて微細な香)に資せられる。(7)住時少時(その期間の長さについての説は必ずしも一定していないが、永くとも四十九日をこえない)。(8)一切の中有は五根を具す。(9)倒心によって欲の境をおもい、あるいは香とか処に愛染を起して結生する。以上が中有を特徴づけている諸性格であるが、なお『婆沙論』巻135には、有心すなわち心を有すること、地・水・火・風の四大種および眼耳鼻舌身等の所造色を具していることが記されている。さらに同論巻114では、中有位に住する者に二十二種の造業が認められている。すなわち、中有位の異熟定業と不定業との二種の業と、および胎内五位・初生・嬰孩・童子・少壮・衰老の以上十位における各々の異熟定業と不定業とが、悉く中有位に住する者に荷負されている。また同論巻119には、堕地獄の中有においては五蘊の異熟を受けて染汚心を起こすともいわれる。いずれにしても、中有は業と不可分のもの、業思想の上にのみ成り立ちうることが注目される。

 

本巻における「中有」の項目には、浄土・極楽へ往生する時に中有を経るのかどうか、という疑問に答える懐感撰『釈浄土群疑論』(No.1960)の解説に対する説明が併記されています。とても興味深く思いましたので、その原文を確認しておきました。

 

(40c19)問曰。於此三界穢土受生。但有色形。皆受中(c20)陰。死此生彼。往來傳識。具有四有。所謂中有(c21)生有本有死有。未知從此生於淨土。亦有中(c22有不(此より[没して]浄土に生る、亦、中有有りや不や。)
 

(c23)釋曰。此有二釋。一言無有中有(中有あることなし)。以此命終坐(c24)蓮華中(此に命終するを以て、蓮華の中に坐す[とす])。故知則是生陰攝也(故に知んぬ。すなわち是れ生陰[生有]の摂なり[と])。以入蓮華之中(c25)似同處胎也(蓮華の中に入るを以て、胎に処するに似同す)。

 

臨終して、[浄土宝池の]蓮華の中に坐す、そしてそれが生有であると解されるので、中有を経ない、ということです。これに対して、懐感はコメントを述べます。

 

今釋。此義未必則然。且如穢土(c26)受生之法。必須至彼生處方受生陰。如欲界(c27)死生於色界。須從欲死受色中有之身。至彼(c28)色界方受生陰。無有於欲界受色界生有身(欲界に於いて色界の生有の身を受くることあることなし)。(c29)今生淨土義亦如此。不可於穢土死則於穢(41a01)土受淨土生有身也。要須至彼淨土之中寶 (a02)池之上方成生有身也(要ず須らく浄土の中の宝池の上に至って方に生有の身を成ず)。又無色界無色。可無(a03)中陰傳識受生。淨土有色。處所既別。如何不(a04)許。有於中陰傳識。至彼受生陰耶

 

「欲界に於いて色界の生有の身を受くることあること」がないように、浄土に往生するときも、穢土に死して間を隔てず不断に浄土生有の身を受くるのではなく、必ず浄土の宝池に至って、はじめて生有の身を成ずる、ということ。ただし、(後述のように、)その場合でも、中有にあって華台に乗じて往生するのであるから、穢土受生の中有と同じではない、といいます。

 

(41a05)問曰。若有中陰。則應生彼至寶池中。方入花(a06)中坐後乃花開。如何於此則入花中。與彼生(a07)陰有何殊別(a08)答。豈以中陰入彼花中。即令同彼生陰攝也。(a09)生彼淨土。福徳力勝。雖是中陰乘花往生(是れ中陰[= 中有]と雖も、花に乗じて往生す)。不(a10)同穢土中陰無花。雖中生陰同在花中(同じく花の中に在り)。然勝(a11)劣別。明晦有殊(然るに、[身の]勝劣の別、[根(感覚・認識機能)の]明晦の殊有り)。以分中生二陰差別。亦以趣(a12)生至生義有差別([中有は]生に趣き、[生有は]生に至るの義、差別あり)。分中生陰異。不約有花無(a13)花分中生別也。若謂同在花中難可差別。即(a14)令無有中陰者。亦可。穢土中生二陰。同無有(a15)華。應言中生二陰不別。若謂中陰生陰雖倶(a16)無花即有受胎等差別者。卵等三生可有差(a17)別。化生生陰如何得殊耶。以此故知。有中陰(a18)也。又如地獄中陰。已被火燒。豈與生陰即無(a19)差別。翻顯淨土善業類同中生相似。然此所(a20)説中陰。然未見經論説生淨土者去身是中(a21)陰非中陰文。不可定判説有無也。雖無經文。(a22)然取有義。爲勝不爾。去身説是何耶

 

浄土へと往生するときの中有と、その生有はともに華台に坐してであるけれど、身の勝・劣の別、根(感覚・認識機能)の明・晦の差があるといいます。

(41a23)問曰。若有中陰者。未知此淨土中陰。爲著衣。(a24)不著衣(a25)答。無經論文。然准定應著衣。以倶舍論言。(a26)欲界中陰除鮮白比丘尼。餘一切中陰皆悉(a27)無衣。以欲界中有無慚愧故。一切色界所有(a28)中陰皆有衣。具慚愧故。以此准知。淨土超勝(a29)色界。如何中陰無有衣耶(浄土、色界を超勝せり。如何ん、中陰に衣あることなけん)。故淨土中陰皆有(41b01)衣服(故に浄土の中陰、皆な衣服有り。)

 

浄土へは衣服を着けて往くとのことです。裸ではないのですね。でも阿弥陀浄土図では、蓮華の上に往生せる有情は「白抜き」の姿で描かれています。それは鮮白・白浄を意味すると、解すべきなのでしょう。

 

 

(b02)問曰。淨土中陰行相如何(b03)答曰。亦以義准知。1穢土生天中陰。足下頭(b04)上。地獄中陰。頭下足上。人鬼傍生。猶如鳥(b05)飛。平身行也。今生淨土。足下頭上。即此經(b06)文。坐蓮華中。即其相也。又釋。有別。生天中(b07)陰。足下頭上。立趣受生。淨土中陰。坐趣受生(b08)也(b09

 

浄土へと至る中有の姿勢が示されています。頭上、足下にして、あるいは華台に坐して[生に]趣き、生を受けるとあります。

 

問曰。淨土中陰。既未至彼極樂世界。於其中(b10)間十萬億佛土。食何食耶(b11

(既に未だ、彼の極楽世界に至らざる、其の中間に於いて十萬億佛土あり。食、何を食べるや)。釋曰。欲界中陰。生縁未合。多時受彼中陰之(b12)身。可須食香以趣生有。淨土中陰。如彈指頃。(b13)即得往生(浄土の中陰[中有]、弾指の頃の如く、即ち往生を得)。時既不長。無勞食亦也。(時、既に長からず。食を労することまた無きなり)又經中間十(b14)萬億佛土。即於空中。食諸佛土2香之氣(すなわち、空中に於いて諸仏土[の]香[飯]の気を食す)。以(b15)資陰身。趣受生處((以て陰身を資すけ、生を受くる処に趣く)。其中有義無量繁多。不可(b16)具説(その中、義、無量繁多有り。具さに説くべらからず)。

浄土へと至る中有の期間は、「弾指の如き頃合い」とあります。ですから食を労することを必要としないのですが、十萬億の仏国土を経てとあるので、その空中に於いては、過ぎ去る仏国土の香飯の気を食すというのです。

 

『望月仏教大辞典』は、『釈浄土群疑論』を紹介して、次の文章で「中有」の解説を締めくくっています。

 

また古来、婆沙等に説に依りて人の死後七七日間を中陰と称し、各(おのおの)七日毎(なのかごと)に斎(さい)を設け、経を読誦し、特に最後の四十九日を満中陰(まんちゅういん)と名づけ、その冥福を祈念するの風(習慣)、行われつつあり、また俗にこの期間は亡魂(ぼうこん、もうこん)晦迷(かいめい)す、となし、中有に迷う等といえり。

 

『釈浄土群疑論』七巻、および著者・懐感については、『新纂浄土宗大辞典』の当該項目(執筆者:金子寛哉)を参照しました。それによれば、法相唯識の学僧であった懐感(えかん)は、善導(ぜんどう。613-681浄土五祖の第三)の本願念仏の教えに帰依して実践体得した自らの体験をもとに、当時流布していた摂論宗や三階教、玄奘請来の唯識学に関連するもの、あるいは念仏信仰自体における内部の疑問など、多くの問題を取り上げ、一二科一一六章に亘ってその疑問を決択した書、とあります。