お釈迦さまのようになりたい、さとりを開き、周りのお人を正しく、巧みに教え導く智慧と慈悲を、わたしも身に付けたいと願うなら、必ず菩提心を発こす必要があります。お釈迦さまのようにはなれなくても、おさとりは開けるのですか、という意地悪な、でも「的を射た」ご質問に対しては、「可」と答えなければなりません。でも大乗仏教を学ぶ菩薩である私たちは、それを達成できないことは知ってはいても、菩提心を発こす者でありたいのです。
発菩提心の内容は、先にご紹介した四弘誓願でもあり、三帰礼文にもその精神が示されています。ここでは、道元禅師のおことばに基づいて、発菩提心とさとりとの関係、そして利他との関わりについて考えてみます。
参考にしたのは、星 俊道さま「道元禅師における『自未得度先度他』について」『印佛研』第48号第1巻、平成11年)です。ただそれは「悟りを状態(完成された状態)ではなく、働きと捉え、その働きが存在する場が如来蔵であるとする本覚思想」を主張するもので、ここでの私の趣旨とは異なりますが、そのご論考から基本的な情報は充分に知ることができる、と考えたからです。道元禅師のおことばを幾つかご紹介します。
発心とは、はじめて自未得度先度他の心をおこすなり、これを、初発菩提心、いふ。(『正法眼蔵』「発菩提心」)
「自未得度先度他(じみとくど・せんどた)」という表現は、『大般涅槃経』巻第三十八(12:590a)に求められます。道元禅師は、次のように受けとめられておられます。
たとひ、ほとけになるべき功徳熟して円満すべし、といふとも、なほめぐらして、衆生の成仏得道に回向するなり。(同)
初発菩提心とさとり(阿耨多羅三藐三菩提)との関係については、次のように述べておられます。
阿耨多羅三藐三菩提と初発菩提心と格量せば、劫火・蛍火のごとくなるべしといへども、自未得度先度他のこころおこせば、「(発心畢竟)二無別」なり。
劫火(ごうかkalpagni)とは、壊劫(世界が崩壊する時期)の時に起こる、三千大千世界を焼き尽くす(、ものすごい勢いなのでしょう、その)大火のことで、細々とした蛍火は比べものにはなりません。もちろんここでは、劫火は阿耨多羅三藐三菩提をいい、初発菩提心は蛍火に例えられています。でも自未得度先度他の精神をもってであれば、両者には何らの差異はない、とされているのです。そしてそればかりでなく、発心と畢竟(ひっきょう。仏道の究極である阿耨多羅三藐三菩提)とは同じものであるが、初発心が尊ばれる。それは、至心に起こすこと、ほんとうにわが心中に起きることが難しい、困難であるからだというのです。
道元禅師は、仏道の初心者向けて、初発心の重要性を説いておられる、ということです。まず、発菩提心とさとりとの関係に対する道元禅師の考え方の基本は理解されるようです。
次いで、発菩提心と利他との関わりについて考えなければなりませんが、星論文に引かれる道元禅師のおことばは、とても難しくもあり、魅力的なものです。
衆生を利益す、といふは、衆生をして自未得度先度他のこころをおこさしむるなり。自未得度先度他の心をおこせるちからによりて、われ、ほとけにならん、とおもふべからず。(同)
簡潔に述べておきます。道元禅師にとっては「自利」と「利他」は相即の関係にある、啐啄同時[そったくどうじ]であり、時系列・[前後の]順番は存在しない、ということ、そして発心を「百千万発」繰り返すことこそが、道元禅の真髄であるということです。
真言密教を学ぶ私にとっても、とても役立つ情報です。おそらく弘法大師の考え方、真言密教においても、そしてインド大乗仏教の理解にも当てはまることなのではないでしょうか。準備をして再度考えて直してみます。星 俊道さま「道元禅師における『自未得度先度他』について」はとても参考になりました。ありがとうございます。合掌