護摩供の祈願のことばに、次のものがあります。
至心発願 唯願火天 納受護摩 当賜成就
(ししんほつがん ゆいがんかてん のうじゅごま とうしじょうじゅ)
定型句となっていて、護摩供が進むにつれて、「火天」のことばは、それぞれ「本尊」、「三十七尊」、「不動明王 十天曜宿」と入れ替わります。作法は丁寧には、まず念珠を摺り、そして念珠を三匝にして、虚心合掌の中に入れて、先のことばをお唱えします。
読み下し文は、以下のようになるでしょうか。
[われ、いま]至心に発願す、唯だ願わくは、火天は(あるいは本尊、三十七尊、不動明王 十天曜宿は)[速やかに]護摩[を修しての供養の資具(支具、とも)]を納受して、まさに[祈願者の願意の]成就を賜うべし。
『蘇悉地経』に、「当賜成就」の用例があります。
『蘇悉地経』(T.No.893, vol.18)奉(608b15)獻之時發如是願。此花清淨。生處復淨。我今(b16)奉獻。願垂納受。當賜成就。獻花眞言曰(b17)何上賀囉阿賀囉 薩囉嚩二合尾儞夜二合達囉(b18)布爾帝 莎去訶去(b19)當用此眞言持花供養。通及三部。若獻佛花。(b20)取白花香氣者供養之。若供獻觀音。應取水(b21)中所生白花而供養之。若獻金剛。應用種種(b22)妙花而以供養。若獻地居天。隨時所有種種(b23)諸花隨取而獻。
チベット語からの和訳(「チベット訳『蘇悉地羯羅経』 「供養花品」のテキスト校訂ならびに試訳」蘇悉地羯羅経共同研究会 金本拓士、クンチョック・シタル、佐々木大樹、駒井信勝『智山学報』第六十六輯を参照)
(奉華願偈)清らかに生じた天界の宝[である]この花を、私の信心によって供養しますので、お受け取りになって、私をよろこばせてください。(8-4)
(献花真言)oṃ āhara āhara sarvavidyādhara pūjite svāhā オーン 受け取れ 受け取れ すべての持明者よ 供養されるとき スヴァーハー
「至心発願」は康僧鎧訳『佛説無量壽經』(T.No.360) in Vol. 12などにあります。それが、いわゆる弥陀の誓願のうちの第18願にあたります。
(268a29)設我得佛。十方衆生發菩提心修諸功徳。(268b1)至心發願欲生我國。臨壽終時。假令不與(b2)大衆圍遶現其人前者。不取正覺(Web上では、Sanskrit Texts無量寿経・阿弥陀経の梵語原典テキストが参照できます。)
さて、ひとつ明らかにしておきたいことがあります。それは、火天(そして本尊、三十七尊、不動明王 十天曜宿)は、私たちが護摩を修して供養する資具、そして、祈願者の願意を、どのようなお気持ちでお受け取りになっていただけるのでしょうか、ということです。
手がかりとなる資料はないわけではありません。ここでは、中村 元『遊行経下<阿含二>』仏典講座1、大蔵出版1985を用いて考えてみます。
お釈迦さまも、修行生活に必要な、日々の食べ物や衣類などの「資生の具」を信者さまからのお布施としてお受け取りになられていたことは、比丘(女性の場合は、比丘尼)として何ら変わるところはなかった、と想像します。それは、次のようにもあります。
(中村 元による、Skt.文からの和訳)
そこで、マッラ族の高官であるプトカラは、金色の新しい一対の絹の衣を受け取って、尊師に次のように言った。――
「この金色の新しい一対の絹の衣は、われわれにとって好ましく、気持の良いものです。尊師はどうぞこれをお受け下さい。」
尊師は、マッラ族の高官であるプトカラのくれた金色の新しい一対の絹の衣を、思いやりの心で受納した。
そこで、マッラ族の高官であるプトカラは、尊師に次のように言った。――
「では、わたしは、尊師と修行者の集いとに対して、近待することに致しましょう。尊いお方よ。」
「このみごとなことは、プトカラにふさわしい、」と尊師は言った。
そこで、マッラ族の高官であるプトカラは、尊師の説かれたことを喜び感謝して、尊師の両足に、頭を垂れて敬礼して、尊師のもとから立ち去った。
「どうぞこれをお受け下さい。」、「思いやりの心で受納した。」はそれぞれ、佛陀耶舍・竺佛念譯『遊行経』では「願垂納受」(19b9. 願わくは納受を垂れたまえ)、「佛愍彼故即爲納受」(19b11. 佛はかれを愍むが故に、即ち為に納受したまいぬ)とあり、『般泥洹經』 (No.6) 、法顕訳『大般涅槃經』(No. 7)では、前者のみあり、それぞれ「願哀納之」(184a12)、「唯願哀愍 即賜納受」(198b13)という表現となっています。なおSkt.原文はいずれも、anukampām upādāyaという表現が用いられています。
ここでは、後者の用例「思いやりの心で受納した」、「佛愍彼故即爲納受」に注目します。お釈迦さまは、信者さまからのお布施を、思いやりの心で、信者さまの将来の幸せをもたらす機縁となることを考慮して受け取られるということです。ただしそれだれでは、輪廻の苦から脱することにはならないので、次いで、「礼拝」(帰依)をお受けになられたのです。お釈迦さまはまさしく最良の「福田」であり、お釈迦さまへの布施はまさしく、将来の幸せだけでなく、さとりの達成へと導く機縁ともなるのです。
28日の護摩供のため、本日あきたこまち2Kgを購入しました。
(追記)前日の投稿(お布施としてお受けするために気をつけること2025-02-13)で、「故人さまのご廻向としてお預かりします」といって、お施主さまには、ご功徳となるよう、善根を積む行いであることをご理解していただけるようお受けしなければならないのです、とかっこよく申しあげてしまいましたが、「故人さまのご廻向」とは、故人さまの成仏(さとりの達成)という意味だったのですね。