十如是(じゅうにょぜ) 事始め 

 

天台宗の常用経典を収めた『天台課誦』には、法華懺法、例時作法のほか、勤行作法として三種の式次第が掲載されています。そのうち勤行次第・第二式は、自我偈(『妙法蓮華経』如来寿量品偈)を中心とし、十如是(『妙法蓮華経』方便品の一節)、円頓章がつづき、念仏・南無阿弥陀仏(十遍)、念仏回向偈「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」で終わるので回忌法要などの廻向次第として活用しています。以後しばらく、十如是(じゅうにょぜ)について、その基本的な情報を簡潔にご紹介いたします。十如是は毎日のようにお唱えしているのですが、その内容を正しくお伝えするには充分な準備と注意が必要なのです。

 

【本文】まずは振り仮名をつけて、本文をご紹介します。

仏所成就(ぶっしょうじょうじゅ)。第一希有(だいいちけう)。難解之法(なんげしほう)。唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)。乃能究尽(ないのうくじん)。諸法実相(しょほうじっそう)。所謂諸法(しょいしょほう)。如是相(にょぜそう)。如是性(にょぜしょう)。如是体(にょぜたい)。如是力(にょぜりき)。如是作(にょぜさ)。如是因(にょぜいん)。如是縁(にょぜえん)。如是果(にょぜか)。如是報(にょぜほう)。如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう)。

 

【十如是】「相」などそれぞれの意味について、菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』大蔵出版1993は次のよういいます。(  )内は新田雅章「天台智顗の生涯と思想」『智顗 人物中国の仏教』大蔵出版1982からです。複数の説明を参照すれば、何となく意味もはっきりとしてきます。

 

如是相:このような外面的特徴(存在するものの外にあらわれた様相)

如是性:このような内面的特徴(存在するものの内にそなわった性質)

如是体:このような実体(個々の存在を構成する主質)

如是力:このような潜在的能力(潜在的能力)

如是作:このような顕在的な活動(外にあらわれでる作用)

如是因:このような原因(ものの生起を導く直接原因)

如是縁:このような条件(因を助ける補助因)

如是果:このような結果(因と縁によって招来される結果)

如是報:このような報い(結果によってもたらされる報い)

如是本末究竟等:このような(外面的特徴から報いまでの)本と末とが究極的に等しいこと(相から第九の報までのすべてが実相にきわまること)

※「等しいこと」とは、それぞれがそれぞれに平等に具融(たがいにささえ合うこと)しあっているすがたをいうといいます。

 

【諸法実相】何が十如是であるのか、すなわち主語は何かといえば、それは「諸法実相」(宗義としては、あらゆる存在の[道理にかなった]ありのままのすがた。もともとの文脈にしたがうのなら、仏の成し遂げられた多くの法・特性のあり方「仏所成就」)が、です。ただそれは「唯だ仏と仏とのみ乃ち能く究尽す」るところであり、「第一希有難解の法」であるのです。十如是とは、「存在するもののあり方を示す範疇(カテゴリー)であり、一切法はそれによって(、すなわち相から如是本末究竟等までによって)ありのままにあらわし出されることとなる」(新田雅章)というのです。ただし、いまの私たちには「諸法実相」はありのままには捉えられず(十如是のひとつひとつを理解できるとしても、偏りなく認識することはできない)、「諸法実相」を認識することが仏道の究極的課題でされるのです。「諸法実相」は「諸法の実相」、そして「諸法は実相」と読むことができる、といいます。「諸法は実相」という読み方は、すべてのものは、あくまでそのものの真実の相でしかない、そのままである、ということ。逆にいえば、諸法の真実の姿をとらえることができるのなら、それが諸法を真実に、ありのままにとらえることができる、ということを意図しています。すなわち、仏さまの悟りは諸法実相=現実の世界にある、ということです。(ほうげんじ Hougennji さまのYoutube 法華経のはなし第三十五回 方便品 諸法実相と十如是を参照いたしました。)

 

以後つづけて、

 

菅野博史『法華経 永遠の菩薩道』大蔵出版1993

新田雅章「天台智顗の生涯と思想」『智ギ 人物中国の仏教』大蔵出版1982

 

を精読して理解するところがあれば、ご報告いたします。