『大日経疏』巻第一より

【住処成就を明かす:広大金剛法界宮】

次又釋歎加持住處。故云廣大金(580a20剛法界宮。大謂無邊際故。廣謂不可數量故。(a21)金剛喩実相智。(中略)法界者。廣大金剛智體(580a27)也。此智體者。所謂如來實相智身。以加持(a28)故。即是眞實功徳所莊嚴處。妙住之境心王(a29)所都。故曰宮也。6此宮是古佛成菩提處。所(580b1)謂摩醯首羅天宮。釋論云。第四禪五種。那含(b2)住處。名淨居天。過是以往。有十住菩薩住處。(b3)亦名淨居。號曰大自在天王是也。今此宗明(b4)義。以自在加持神心所宅故。名曰自在天王(b5)宮也。謂隨如來有應之處。無非此宮。不獨在(b6)三界之表也。

 

次にまた加持[の]住処を釈歎するが故に、「広大金剛法界宮」と云う。「大」は謂わく無辺際の故に、「広」は謂わく不可数量の故に、「金剛」(vajra)とは実相智に喩う。(すなわち、ものごとの真実、本質を知る金剛にたとえられる無分別智をいう。)(中略)「法界」(dharmadhātu)とは、広大金剛の智体なり(金剛実相智を本質とする、ということ)。この智体とは、謂わゆる如来の実相智身なり。加持を以ての故に、即ち是れ真実の功徳に荘厳(そうごん)せらるる処の妙住の境、心王(しんのう。マンダラの中心尊である大日如来)の所都なるが故に「宮」という。(真実功徳の荘厳するところの処、妙住の境なり。心王の都するところなるが故に宮というなり。)この宮は、これ古仏の菩提(bodhi)を成ずる処(ところ。過去の諸仏が等しく、成道したところ)、謂わゆる摩醯首羅(Maheśvara大自在)天[王]宮なり。『釈論』(巻第九)に云わく、「(色界)第四禅の[上位]五種(すなわち、無煩、無熱、善見、善現、色究竟の五天)は那含(阿那含anāgāmin.不還の聖者)の住処なり。浄居天と名づく。是れを過ぎて以往に(すなわち、それを越えたところに)十住(ここでは「十地」の意)の菩薩の住処あり。また浄居と名づく。号して大自在天王と曰う」是れなり。今、この宗の明かす義は(今この宗に義を明かさば)、自在加持神心(じんしん)の所宅なるを以ての故に、名づけて自在天王宮と曰う。謂わく、如来有応の処(如来、[感]応あるの処)に随うて、この宮に非ざることなし、独(ひと)り三界の表(ほか。すなわち欲界・色界・無色界の外がわ)に在るに[は]あらず。

 

自在加持神心:「神心」については、『大日経開題』法界浄心に「下転とは、本覚の神心より随縁流転して六道の神変を作す。」、「上転神変とは、もし衆生あって菩提心を発し、自乗の教理を修行し昇進して、本覚の一心を証すれば、すなわち能く迷識の神心を転変して自乗の覚智を証得し、一切の難思の妙業、心に隨って能く作す。」との二つの用例があり、ここでは前者に相当します。この二種の用例を考慮すれば、神心とは、仏如来と凡夫衆生との成覚・未覚の二種の状態に共通する、「法爾の覚性」(智体)としての心を意味する表現なのでしょう。

 

広大金剛法界宮の受けとめ方について、山崎先生は「如来の神変加持する時、法界(現象と本質との両界を指す)悉く金剛法界宮である。日常世界の中ではそれは三界の遥か彼方に存在するが、感応(すなわち、神変加持)する時、この土そのままが即座に金剛法界宮となる。超越即内在である。全宇宙悉くが金剛法界宮となる。現実足下の、この国土が金剛法界宮である、と実感できたときが、覚りである。」と教えてくださっています。( )内は筆者です。