『金光明経』に説かれる「弁才天」の性格

 

天平13年(741年)に国分寺建立の詔が発せられ、これを受けて翌天平14年(742年)、金鐘寺(東大寺の前身)は大和国(現在の奈良県)の国分寺兼総国分寺と定められ、寺名は金光明寺(「金光明四天王護国之寺」)と改められた、といいます。(Wikipedia「東大寺」参照)それに先立つ天武天皇5年(676年)の『日本書記』には「遣使於四方国、説金光明経・仁王経」とあり、『金光明経』は、病気や災害・不作に直面する時代にあって、護国の功徳を期待する経典として全国の寺で読誦されたという歴史的使命(『続日本紀』「太上天皇不豫」「水旱失時」「敬神尊佛」「国家平安」「聖法之盛」「年穀不豊 疫癘頻至」「悔過」「皇家累慶 国土厳浄 人民康楽」)がありました。(安部郁子「奈良時代の『金光明最勝王経』の修法と香薬 その2」参照)また法隆寺が所蔵する玉虫厨子に描かれる絵画のひとつである「捨身飼虎図」(須弥座向かって右面)の出典は『金光明経』「捨身品」である、といいます。(Wikipedia「玉虫厨子」参照)さらに、東大寺には元吉祥天堂の本尊とされる吉祥天、弁才天(八臂立)の両像、また京都府・浄瑠璃寺には吉祥天を納める厨子の扉絵・鎌倉時代が伝えられています。(「神仏霊場 巡礼の旅」弁才天そろ~り搬入、和楽「日本一の美人」を納めた厨子の中へ! 重文《浄瑠璃寺吉祥天厨子絵》の謎を徹底解説、等を参照)

 

さて、ここでは『金光明経』における「弁才天」の記述について整理しておきます。まずそれを調べる仕方について説明いたします。

 

『金光明経(Suvarṇaprabhāsottama-sūtra)』には、サンスクリット語刊本(Nobel:1937)のほか、チベット語訳三種、漢訳三種があります。ここでは漢訳の二種を用いて確認・調査を行います。それは下記のものです。

 

『金光明経』四巻十八品、北涼・曇無讖訳(421年)「大辯天神品」第七

『金光明最勝王経』十巻・三十一品、唐・義淨訳(703年)「大辯才天女品」第十五

 

ご覧の通り、四巻と十巻とあるように、後者は二倍以上の分量があり、さまざまな情報が増広・付加されています。『金光明経』の中でも、曇無讖訳は経典作成当初の基本的な姿を伝え、義淨訳はもっとも発展した形を示しています。先の投稿においてご紹介した『金光明経・大辯才天女品』とは、曇無讖訳「大辯天神品」第七のすべてであり、それは義淨訳「大辯才天女品」の冒頭部分(§1)に相当します。『大辯才天讃偈』は義淨訳「大辯才天女品」中(§8)に見いだされる讃偈であり、それはてサンスクリット本、チベット語訳本、そしてもう一つの漢訳本(八巻・二十四品、隋・宝貴合揉.597年)にも認められます。(概ね、義浄訳に先立つ、比較的早い時期に付加された記述となります。)

 

『金光明経・大辯才天女品』は、弁才天女が法師(説法者)に対してさまざまな支援をなすことを仏に宣言する記述となっています。義淨訳で示せば、以下の通りです。

 

(434b27-c8)そのとき、大辯才天女[は]大衆の中に於いて即ち座より起ちて、佛足を頂禮し、佛に白して言さく、『世尊[よ]、もし法師(ほっし.dharmabhānaka)あり、この金光明最勝王經を説く者は、我れまさにその智慧を益し、言説(ごんぜつ)の辯*pratibhānaを具足莊嚴(しょうごん)すべし。もし彼の法師、この経の中に於いて、文字(*nirukti)句義(*artha)を忘失(もうしつ)するところあらば、皆な憶持(おくじ)して、能く善(よ)く開悟(かいご)せしめ、復た陀羅尼總持*dhāraṇī, smṛti)の無礙を與えん。又この金光明最勝王經は、彼の有情の、已に百千佛の所に於いて、諸の善根を種えて、常に受持すべきものの爲に、贍部洲(せんぶしゅう)に於いて、廣く行はれ流布して速かに隱沒(おんもつ)せざらしめん。復た無量の有情、この經典を聞くものをして、皆な不可思の捷利(しょうり)の辯才と無盡の大慧とを得しめ、善く衆論(しゅうろん)[を辯暢し]、及び伎術を解せしめん。能く生死(しょうじ)を出でて、速やかに無上正等菩提に趣(おもむ)かしめん。現世の中に於いては、壽命を増益し、資身の具(生活の必要な物、の意)、悉く圓滿ならしめん。

 

ここに示されているのが、仏典において受容されるにあたって、期待される弁才天女の職能・功徳です。すなわち智慧辯才、そして總持がその中心です。それに加えて、経典の(守護・)流布も願われています。なお曇無讖訳「大辯天神品」と比較してみて分かることですが、文末の「現世の中に於いて」以下云々は、義浄訳において付加された部分のようです。なお曇無讖訳では、弁才天のお姿について、その特徴的な持物である「琵琶」についての言及はありません。(義淨訳もしかり。弁才天に関連して琵琶(vīṇa)を説くものとしては、『大日経』「密印品」第九があります。)

 

曇無讖訳「大辯天神品」の内容は、以上の義浄訳のそれにつきるのですが、曇無讖訳にはこの箇所以外にも、弁才天に関する記述があります。それは序品第一、四天王品第六、鬼神品第十三です。それぞれ義浄訳では序品第一、四天王観察人天品第十一と四天王護国品第十二、諸天薬叉護持品第二十二に対応します。それは、いずれも佛典を受持・読誦するものを擁護すると誓う記述であり、弁才天が、他の多くの神々・精霊とならんで列挙されていることには注意すべきです。それは仏教が、インド社会で信仰されている神々・精霊を受容するときは、護法天(世護天)として取り込まれる、ということのほか、曇無讖訳がA.D.421年であり、この頃より仏教に、インド社会において信仰される神々の受容の(退っ引きならないほどの)必要性が(急激に)生じてきたであろうということを示唆しているようです。(それが、密教の形成・展開につながると考えられます。)

 

その一例を、いまは比較的読みやすい義浄訳から示します。(かなりに長文です。)

 

(445c16)是の如き諸の9天主、天女大辯才c17)并に彼の吉祥天、及以び四王衆(c18)無數の藥叉衆、勇猛にして神通有り(c19)各、其の四方に於いて、常に來りて相擁護す(c20)。天帝釋の諸神(c21吠率怒(visnu)大肩閻羅辯才等c22)一切の諸の護世、勇猛にして威神を具し、(c23)持經の者を擁護して晝夜常に離れず。(c24)大力の藥叉王10那羅延11、自在(c25)12正了知を首と爲し、二十八藥叉(c26)餘の藥叉百千、神通、大力有り(c27)恒に恐怖の處に於いて、常に來りて此の人を護る。(c28)13金剛藥叉王、并に五百の眷屬(c29)諸の大菩薩衆、常に來りて此の人を護る。(446a1)1寶王藥叉2王、及以び3滿賢王(a2)4(Āṭavaka)、5金毘羅、6賓度羅、7黄色(a3)此等の藥叉王、各の五百の眷屬(a4)此の經を聽く者を見て、皆な來りて共に擁護す。(a5)8彩軍9揵闥婆、10葦王、11常戰勝(a6)12珠頸及び13青頸、并に14勃里沙王(a7)15大最勝16大黒(中略。その中には18半19之迦、

36阿那婆答多、37娑掲羅、40難陀、41小難陀、48訶利底母神、49旃荼、50旃荼利等の馴染みのお名前も列挙されています。)(446a29)上首辯才天、無量の諸の天女(446b1吉祥天を首と爲し、并に餘の諸の眷屬(b2)此の大地の神女、果實園林の神(b3)樹神、江河の神、制底の諸神等(b4)是の如き諸の56大神、 心に大歡喜を生じ(b5)彼皆な來りて、此の經を讀誦する人を擁護す。(b6)經を持する有る者を見ては、壽命、色、力(b7)威光、及び福徳を増し、妙相を以て莊嚴す。(b8)星宿、災變を現じ、困厄、此の人に当たり(b9)夢に惡徴祥を見るも、皆な悉く除滅せしむ

 

義浄訳の下線部は、曇無讖訳では次のようにあり、概ね内容は同じです。

 

(350b21)愛樂親近 是經典者(b22)於諸衆生 増命色力 功徳威貌(b23)莊嚴倍常 五星諸宿 變異災怪(b24皆悉能滅 無有遺餘 夜臥惡(b25)寤則憂悴 如是惡事 皆悉滅盡 

 

以上、曇無讖訳『金光明経』に記述される「弁才天」の性格について(かなり大雑把なのですが)ご紹介いたしましたが、弁才天の基本的な性格、そして多くの神々の中にあって弁才天、そして吉祥天は主要な存在であったことが分かりました。弁才天、そして吉祥天はともに女神であり、弁才天を考える上で、インド文化における女神信仰の動向も考慮しなければなりません。そしてもう一人の重要な女神がドゥルガー女神です。(これは、弁才天に集約・統合して、仏教に導入されたようです。)

 

参考論文 長野禎子『金光明経』における「弁才天」の性格