梵網菩薩戒経偈(改定版)
常用経典のひとつとして、『台宗課誦』にも収録されている「梵網菩薩戒経偈(ぼんもうぼさつかいきょう・げ)」をご紹介します。(2025/01/21)の投稿を、『天台宗実践叢書』第三巻―法要―、平成4年を参照してより意味を取りやすくしてみました。(本日も2025/01/21の投稿を検索されてお方もおられ、より正しくお伝えしなければと、肝を冷やしました。)なお漢文の訓読は、ひとつには確定していません。通常は音読しますが、読み下し文も繰り返し繰り返し読んでみて、しっくりする読みを探しましょう。
梵網菩薩戒経偈(ぼんもうぼさつかいきょう・げ)
我今盧舍那(がこんるしゃな)方坐蓮華臺(ほうざれんげだい)
周匝千華上(しゅうそうせんけじょう)復現千釋迦(ぶげんせんしゃか)
一華百億國(いっけひゃくおっこく)一國一釋迦(いっこくいっしゃか)
各坐菩提樹(かくざぼだいじゅ)一時成佛道(いちじじょうぶつどう)
如是千百億(にょぜせんひゃくおく)盧舍那本身(るしゃなほんしん)
千百億釋迦(せんひゃくおくしゃか)各接微塵衆(かくしょうみじゅんじゅ)
倶來至我所(くらいしがしょ)聽我誦佛戒(ちょうがじゅぶっかい)
甘露門則開(かんろもんそっかい)
我れ[は]いま盧舍那[として]、方に(蓮華蔵世界の)蓮華台に坐し、(「坐せり。」とも読む)周匝せる(周りに開き、とりかこむ、意)千華の上に[は]、復(また)千の釈迦を現ず。(さらに)一華に百億の国(仏国土、意)あり、一国に一[人の]釈迦ありて(「いまし」とも)、各(おのおの)菩提樹に坐し[て]、一時に(皆、一斉に、同時に、の意)佛道を成ず(「成じたまう」とも。さとりを開く、の意)。かくの是き千と百億[の釈迦]とは、盧舍那を本身(本地[ほんじ]の仏)となし、(「となす。」とも)千と百億の釈迦[は]、各(おのおの)微塵の(数えきれないほどの大)衆を接す。(「接して、」とも)[千と百億の釈迦、そしてその大衆は]倶(ともに)にわが所に来至し、(「来至す。」集まり来たる、の意)我(わ)が佛戒を誦するを聴け(「聴くべし。」とも)、甘露の門、則ち開く(「開かん」とも)。
まずは、本身(本地の仏)としての華台の盧舍那仏、千の華上の千の釈迦、そして千の華弁の内の百億の釈迦、そして数限りない多くの大衆、その蓮華蔵世界の情景が明かされます。「甘露の門、則ち開く」とは、梵天の勧請に応えられての、お釈迦さまの説法宣言のことばである「耳ある者たちに不死へのもろもろの門は開かれた。浄信を発こせ」(2024/12/3の投稿参照)を念頭においた表現なのでしょう。
還至本道場(げんし、ほんどうじょう)各坐菩提樹(かくざ、ぼだいじゅ)
誦我本師戒(じゅが、ほんしかい)十重四十八(じゅうじゅう、しじゅうはち)
戒如明日月(かいにょ、みょうにちがつ)亦如瓔珞珠(やくにょ、ようらくしゅ)
微塵菩薩衆(みじん、ぼさっしゅ)由是成正覺(ゆぜ、じょうしょうがく)
是盧舍那誦(ぜ、るしゃなじゅ)我亦如是誦(がやくにょぜじゅ)
汝新學菩薩(にょしんがくぼさつ)頂戴受持戒(ちょうだいじゅじかい)
受持是戒已(じゅじぜかいい)轉授諸衆生(てんじゅ、しょしゅじょう)
この時、千と百億と[の釈迦]は、還りて本(もと)の[菩提]道場に至り(「本道場に帰り至って」とも読む)、各(おのおの)菩提樹に坐して、わが本師の戒なる十重四十八を誦す。(「わが本師の戒を誦す。十重四十八なり」とも)。戒は明らかなる日月の如く(罪業を除き暗闇を照らし)、(その尊さは)また瓔珞の珠(宝石)の如し。微塵の(数限りない多くの)菩薩衆、これに由りて(この戒を授かることで、の意)正覚を成ず(悟りを得る、の意)。これ盧舍那の誦したまふところ[なり]、(これより)我もまたかくの如く誦す。汝、新学(しんがく。仏道に入ったばかりの、意)の菩薩、頂戴して戒を受持せよ。この戒を受持し已らば(「已らりなば」)、転じて(さらに進んで、の意)もろもろの衆生(の利益のため)に授けよ。
戒の功徳を説き、この戒を頂戴、受持することを勧め、さらに、広く多くの衆生にこの戒を授けていくように勧めます。
諦聽我正誦(たいちょう、がしょうじゅ)佛法中戒藏(ぶっぽうちゅうかいぞう)
波羅提木叉(はらだいもくしゃ)大衆心諦信(だいしゅしんたいしん)
汝是當成佛(にょぜ、とうじょうぶつ)我是已成佛(がぜ、とうじょうぶつ)
常作如是信(じょうさにょぜしん)戒品已具足(かいほん、いぐそく)
諦かに(よく心にとどめて、の意)聴け、我れ正に、佛法中の戒蔵、波羅提木叉(pratimokṣa戒の条項)を誦せん。大衆、心に諦らかに信ぜよ。汝はこれ当成の佛(将来に必ず悟りを開くことの約束された未成の仏)、我はこれ已成の佛(すでに悟りを開いた正覚者)[なり]、常にかくの如きの信を作せば(「作さば」)、戒品已に具足す。
戒条を受けるにあたって、「当成の佛」であること、皆等しく仏性をそなえていることを信じ(浄信をもち)、それをはっきりと自覚して(信解し)、受戒するよう喚起を促す。その信によって、すでに戒品(ひとつひとつの戒すべて)が具足するという。(すなわち、戒に違反し、罪を犯さなくなる、ということ。)
一切有心者(いっさいうしんじゃ)皆應攝佛戒(かいおうしょうぶっかい)
衆生受佛戒(しゅじょうじゅぶっかい)即入諸佛位(そくにゅうしょぶっち)
位同大覺已(いどうだいかくい)眞是諸佛子(しんぜしょぶっし)
大衆皆恭敬(だいしゅかいくぎょう)至心聽我誦(ししんちょうがじゅ)
一切の心あらん(「有る」)者(すべての生きとし生けるもの、有情の意)[は]、皆応に佛戒を摂すべし(摂受すること)。衆生、佛戒を受くれば(「受けぬれば」とも。受戒、保持し守ること)、即ち(たちまちに、の意)諸佛の位に入り、(「入る。」諸仏と同じ心持ちとなる、の意) 位(その境地が本当に)、大覚に(悟りを開いた仏と)同うし已れば(「已って」)、真に(汝は)これ諸佛の子なり。大衆皆恭敬して、至心にわが誦するを聴け。
受戒により、「佛位」の獲得が約束され、真実の佛子となる資格を得ることをいう。
これにつづき、序の結びとなる一文として次の語が示されます。
「佛、もろもろの菩薩に告げて言はく、『我いま半月半月に、自ら諸佛の法戒を誦す。汝等、一切の発心の菩薩もまた誦せよ。(中略)これ諸佛の本源、菩薩の根本、これ大乗諸佛子の根本なり。この故に大衆諸佛子、応に受持すべし、応に読誦・善学すべし。(中略)皆第一清浄者と名づく』と。」
私自身は、真言宗で得度した身ですが、いまお勤めしているお寺はもと天台宗で、いまは単立となっています。ですから『台宗課誦』に載せられている経典については、以前勉強会を行って僧侶で学習していました。(いまは皆、一人前になって、忙しいみたい。その時に作成した資料についても)準備が整い次第、ご紹介いたしたいと考えています。