無常・苦・無我の教え
いまさらながら、仏教の基礎を学び直しています。表題の課題についての解説を、ここでは櫻部 建・上山春平『存在の分析』仏教の思想2、角川書店、昭和44年より、櫻部先生執筆分・第一部三章「ダルマの体系Ⅰ」から抜粋してご紹介いたします。
無常・苦・無我の教えはアーガマ経典の中にくり返しくり返し説かれるところである。あらゆる存在のすべては無常である、という。(「無常」とは、時間の流れの中で移り変わってゆくという意味である。)すべては苦である、という。すべては無我であるという。(ここにいう我とは、自己の存在の中心に意識されているわれという観念であり、わが生存の主体と考えられるものであり、さらに具体的には、身体の内部に潜む唯一で不滅なたましい、霊魂を意味している。「無我」とはそのような我の存在を否定する[。]
「すべては無常である」「苦である」「無我である」という主張は、アーガマ経典の中で、そのように三つ並列されて述べられてもいるが、また「すべては無常である、無常なものは苦である、苦であるものは無我である」と無常が苦・無我を根拠づける関係に述べられていることも多い。(一)すべては時とともに変転し隆替(りゅうたい)して常の無いものである。(二)それを正しくそうと理解せず、いつまでも変わらないものと考えて、そのことに執着するところに、苦と感受されるゆえんがある。(三)そのようにすべてが無常であり苦であるところに常住不変なわれという生存の主体を考えうるはずがない、という論理がそこにある。
「すべてが無常である」という命題の根拠となっているのが「すべては因果関係の上に生ずる」という考え方である[。]それは「縁起」ということばで言い表されている。
「すべては無常である」ということを、ことさらに「すべてのサンスカーラは無常である(諸行無常)」という言い方で表現[される。]サンスカーラという語は本来「造り上げること」、または「造り上げるもの」の意味であるが、この場合は受動形のサンスクリタ、すなわち「造り上げられたもの(有為[うい])」と同義に使われていると考えられる。「造り上げられたもの」とはいうまでもなく、「(さまざまな原因によって結果として)造り上げられたもの」すなわち「因果関係の上にあるもの」「縁起したもの」の意であるから、これは結局、「すべては無常である」ということの根拠が縁起の原理にあることを示しているものである。
無常なものを無常であると、無我なるものを無我であると“ありのままに知り見る”のが正しい知恵である。アーガマの中には多種多様な教えが説かれているが、帰するところは無常・苦・無我の教えであ[る。]
私は概ね不真面目な学生でしたが、櫻部 建先生のご講義は、いまも心に留めています。浜松での夏合宿(仏典を集中して読みました)のかえり、先生のご自坊にお伺いさせていただいたことは、とても良い思い出です。松林を吹くそよ風がとてもさわやかでした。