ここに二つの筆箱があります。上のひとつは15年ほど使用し、かなりくたびれてしまい、実は蓋が外れています。でもまだまだ使えます。下のひとつは数年前、5年ほど前かな、お誕生日祝いにとおねだりしたもので、いままで大切に机の中にしまい込んでいました。でもそろそろ使わなければ、せっかくの機会を逸してしまうのではとの危惧あり、新年から使ってみましょうと手元に出してきました。そこで、ここでは、仏教の旗印のひとつである「諸行無常」について考えてみます。
筆箱に限らず、靴や自動車など、何でもそうなのですが、使いはじめは新品で、使っているうちにだんだんとこなれて、普通になっていきます。ではそのくたびれた感に私たちはいつ気付くのでしょうか。
たとえば、人は生まれて20歳頃まで男女差なく体重、身長ともに成長をつづけ、以後しばらくそれをキープし(あるいは、体重は徐々に増やしながら)、60歳をむかえるころ、急に体力のおとろえを感じ、健康に不安を感じるようになる、といいます。ですから、どんなものでも、ある一定の期間はそのままに変化することなく存続するのですが、最後には老い、病(やまい)し、姿を消すということになると私たちは考えているのです。この筆箱であれば、かたや15年使用後のそれ、かたや新品のそれ、筆箱は10年ほどなら新品同様、15年経ってもなんの問題もなく使えますが、でも百万年後になれば、どちらも少し指先で触れると粉々に散ってしまうこと必至のものなのです。
これも無常の一つの捉え方「長い時間の中にみられる変化(一期無常)」なのでしょうが(Web版新纂浄土宗大辞典「無常」の項、参照)、厳密には不合理なのです。諸行無常とは「生じた瞬間に滅する」という刹那滅(せつなめつ)のことであり、それは存在するものは、二瞬間以上、同一の本質をもって存続することはありえない、ということです。
私たちは、生まれた瞬間から老いていきます。それは、自動車保険のように保険契約が発生したその日から一日一日契約終了日に近づいていくようにものなのです。通常、自動車保険の契約期間は一年ごとの更新ですが、私たちのいのちは更新なしで、契約終了期間もあらかじめ決められていません。ものは、作られた/造られたその瞬間から、朽ちていくのです。
なぜ存在するものは、二瞬間以上、同一の本質をもって存続することはありえないのですか、という質問については、学生のころ繰り返し読んだ、梶山雄一先生のご説明以上のものはないと私は考えていますので、いまもそれを引用しておきます。
もしXというものが二瞬間存在する本性をもって生じてきているならば、その第二の瞬間(X1)においても同じその本性をもちつづけるにちがいない。もしその二瞬間存続するという本性をもちつづけないとすれば、それは生じた第一の瞬間におけるXとは異なったYとなってしまっているから、そのXとYとを同一物とすることはできない。もしX1がXと同じ二瞬間存続する本質をもちつづければ、X1はもう二瞬間存続してX2となるが、このX2もまた二瞬間存続する本性をもつから、結局Xは永久に存続しなければならない。したがって、もし、ものが二瞬間存続することを許せば、それが永遠に存続することを認めなければならない。だからものは、生じた瞬間に滅するか、あるいは永久に存在するかのいずれかでなければならない。
梶山雄一『仏教における存在と知識』紀伊国屋書店1983, pp.54-55.
X,X1,X2 …とあらゆるものは変化しながら、すなわち各瞬間に異なったものに生まれかわりながらつづいていくのです。今日の私は、昨日と私と同体でもなく、別体でもないのです。そして明日の私も、今日の私と同体でもなく、別体でもなく、そのような変化するいのちを、私たちは生きているのです。「変わらない自分」を期待し、「実体としての自分」を想定したうえで生きることには、多くの苦悩が伴います。15年使用した筆箱はいままでありがとうという気持ちで廃棄処分しなければと考えています。でもまだまだ使えるから、しまっておきたいな。机に中には、もうひとつ古い、ライオンの絵の缶ぺん筆箱があるのです。ときどき感慨深く、思い出とともに眺めています。三個目の筆箱です。
